学年

教科

質問の種類

現代文 高校生

⑤がなぜ正解なのかわかりません。 正確さに欠けるとはどう言うことなのでしょうか?

【資料Ⅰ】 7% 13% 42 キャッシュレス決済の利用について 148 20 351 0% 20% 【 資料 Ⅱ 】 40% 60% 35% 10% 80% 100% 5%のポイント還元制度をきっかけに利用を始めた A 5%のポイント還元制度をきっかけに利用を検討している 以前から利用している 利用するつもりはない 無回答 キャッシュレス決済の利用状況について 60% 54% 50% 50% 43% 40% 34% B1% 29% 30% 20% 19% 20% 10% 0% 40代以下 50代 60代 70代以上 「以前から利用している 利用するつもりはない 【資料】 62960 外食と持ち帰りの税率の違いについて 28% | 外食の際に意識する | 外食の際に意識しない (いずれも「毎日新聞」 2019年10月28日掲載記事をもとに作成) らを読んで、後の問い (問1~4)に答えよ。(配点 20) であり、【文章Ⅰ】と【文章Ⅱ】は、キャッシュレスのメリットや普及への課題について新聞に寄稿された意見文である。これ ト還元制度が導入された。【資料1】~【資料Ⅲ】は、消費税増税後に行われたキャッシュレス決済の利用等に関する調査結果 化政策を推進している。二〇一九年十月には、消費税率の引き上げに伴い、軽減税率制度とキャッシュレス決済に対するポイン 政府は、少子高齢化や人口減少による労働者人口の減少に備え、生産性を向上する手段の一つとして、キャッシュレス (注1) (注2)

解決済み 回答数: 1
現代文 高校生

問9の解説お願いします🙏💦

20 ねばならない。 また、こ (解答番号は、第二間で【古文】 を選択した場合は1~現代文を選択した場合は1~25です。) 第一問 次の文章を読んで、1~問1)に答えよ。 少女が涙に濡れた。差し出し、言う。「ピッ」 それを見た少年が、え、雨なの、と空をアオぐ保証など、言語にはどこに ちない。少年が朝鮮を知らなければ何だって? 何て言ったの? どういう意味なの? と、いきなりことばそのもの が前面に立ち現れる ことになる。 www. ロサンゼルスでも、アルフ・アタでもどこでもよい。 英語とスペイン語でも、北京語 広東語でもよい。 秋田空港でタク シーに乗った高知からの運転士との会話でもよい。複数の言語が出会う言語場複数の言語が用いられている場では、こう したことは日常である。 「おそらくこういう意味だろう」というような意味の曖昧な実現の仕方も、まさに日常の出来事である。 ホテルのフロントで 交わされる会話に耳を傾けてみよう。そこがホテルのフロントであるという言語場の条件に支えられて、「おそらくこういう 意味だろう」解ってくれたようだ」といった仕方で、意味がかろうじて立ち現れている、そんなことは、今もおそらく二四時間、 世界中あちこちのホテルのフロントで起こっている。あちこちの場で起こっている。 ことばができあいの意味を有していて、 それをキャッチボールのようにやりとりするといった図式は、ホテルのフロントでも、国境の検問所でも、やはりBに過 この意味な実現というありようを見てゆくと、意味の鮮明な実現と意味の曖昧な実現の境界もまた、しばしばゆ やかなものであることがわかるであろう。意味の実現を考えるにあたって、この点はまた重要である。 「ことば常に多義的である」といった次元のことを述べているのではない。「ことばが常に多義的である」と それ自体として大きくってはいないものの、ことばが意味となる機制の結果を語っているに過ぎない。 ことばは 意味となったりならなかったりする、そしてそのなったり、ならなかったりという境界自体も、また原理的に固定し難いもの だという意味の実現の原理的なありようをここでは問題にしているのである。「多義性」とは、ことばが意味を持つものでは 意味なものであることの結果についての書学的なアプローチによる名づけである。「両義性」 や 「曖昧性」もま たにする。ついでに言えば、「それはまあ、なんて言うか、ちょっとあれですが」とか「これこれっていった感 ことばにする方式、意識的に表現を明瞭にする曖昧化といったことが、表現上の選択肢となり得ることも、 この度にある。 ことばは意味を持つ」と考えた。このことは言すると、ことばを「意味を持つ/持たない」という二項 対立の中に位置づけようとしていることに他ならない。実際の甘酒場において意味が立ち現れる、立ち現れないの際にあること レクがありま は、いくらでもある。そうした意味の「持つ/持たない」の二分法で切り分けようとすること自体が、生理の所行と言わ れがされたことば)であれ書かれたことばであれ、外形を有している。形が在る。形を有すること ばか何らかの意味を持つと見たくなるのは、素朴な意味論のように見えるけれども、実はソシュール言語学を決定的な淵源とす 現代である。 ことばがじないのは、青森方言や鹿児島方言のごとく、そもそもコードが異なるからだとか、意味を持つことばを 聞き手が知らないからだとか、あるいは するからだと考えた。こうした考えは全て、ことばは通じるものだ」という テーゼとして出発している。そうした前提に立って、 伝達の失敗とか意思ソツウがうまくゆかな いといったこと、じようとしてきた。あるいは「文字通りの意味」がまずあり、それが実際に用いられる段になると、「言 があると考えてきた。書かれたことばには「行間を読む」などという比喩もあった。「コミュ ニケーション」にあっては、ことばを「正しく」「正確に」用いることがしばしば語られた。さらにはことばが「文化」にまで める てきたのである。 あらかじ 拡大され、「異文化」というコードを知ること、「異文化理解」などといった考え方が喧伝されてきた。これら多くの考え方の中 で、大前提となる、同一言語コードの上で、即ち正しいコードの共有の上で、ことばの十全たる受け渡し、即ちことばの正しい キャッチボールさえ実現できれば、「ことばは通じるものだ」という暗黙のテーゼ自体は揺るぎないものとして、保持され続け かも戻すた形がと ことばを「意味を持つ/持たない」という二項対立の中に措定しようとする限り、「ことばは通じるものだ」という暗黙のテー ゼは動きようがない。ことばが意味を「持っている」なら、何かしらの外的な阻害条件が加わらない限り、 ことばは投げ与えら れたので、その意味は話し手から聞き手に「伝達」されることになってしまうからである。 言語学的な立場から情報通信理論の図式を提出している典型として、R・ヤコブソン『言語とメタ言語」を挙げることができ る。 「送り手」が「受け手」に対して「メッセージ」を送る。この「メッセージ」ということばも、なかなかに危ないことばで ある。同書では「場面」が強調されている。 送り手と受け手に完全に、もしくは部分的に共通した「コード」と、送り手と受け 手の物理的経路と心理的なつながりである「接触」が欠かせないとして、ヤコブソンはこうした六つの因子を挙げる。場面を強 調している点は首できるものの、送り手が受け手にメッセージをあるコードに従って送るといった考え方は、いかにも機械的、 図式的で、素朴な発想である。こうした機械的 図式的という非現実性は、ヤコブソンの論の隅々に通底する二項対立論がもた らすものである。もっと言えば、ソシュール以来の言語学、記号学、 構造主義が、共通して胚していた二項対立論の、謂わば 負の表れである。負の表れと言ったのは、二項対立論は、二〇世紀思想とまではゆかずとも、少なくとも二〇世紀言語学にあっ ては、長足の発展を基礎づけた、決定的な方法論の一つだったからであり、負の結果と同時に巨大な正の成果も招来してきたか らである。 ジュリア・クリステヴァのような言説の中にも、送り手が「受け手=解読者」にメッセージを送るという、こうした図式が入 り込んでいる。 「伝達される意味」などということばに頼れているように、送られる「タッセージ」はそこでは事実上、意味を 持っていると考えられている。 クリステヴァが「受け手=解読者は、聞こえることを言える範囲でのみ解読する」と言うとき、 「送り手」における意味と、「受け手」における意味という、少なくとも二種の意味があり得ることを掘り下げる、一歩手前まで 来ているのにも拘わらず、どうしても意味を持った「メッセージ」を伝達するという観念から、抜け出ることができないでいる。 「送り手」がある意味をメッセージとして込める、その「メッセージ」を受け手が自ら「言える範囲でのみ」 解読するというク リステヴァの図式においては、やはり「ことばは意味を持っている」 という前提が揺るがない。J・J・カッツ「言語と哲学」 にも似たような考えが見える。 実のところ、送られるのは、一定の意味を持った イッセージなどではなく、一度は音声とい う形で意味から自由になったことばなのである。 ヤコブソンなどのこうしたコード論に立って、意味が実現しないと言っても、それは異なったコード間での出来事ではないか、 エンコード (encode) したのと同じ code でデコード (decode) していないのだから、と反論するのは、見苦しい言い訳に過ぎ ない。その言語観は、まるで数理的な体系でもあるかのような、コードなるものを幻想する以前に、コードなど成立しない言語 場を予めはっきりと理論的に位置づけ得ていただろうか? あるいは一瞬でも考えただろうか? 繰り返すが、 ことばが意 味となったりならなかったりする、あるいはかろうじて意味となる、それは私たちにとって日常であり、世界にとって自然で ある。言語にとっては存在のありかたそのものなのである。そうした事態がその言語観の中に鮮明に位置をシめていないのであ れば、言語の実現のリアリティの大きな前提が、その言語観においては予め切り捨てられている、ないしは隠蔽されていること になる。「ことばが通じる」という事態よりも「通じたり通じなかったりする」ことが先に、あるいは、より深いところにある がゆえに、その深いところにある前提を除外した時点で、その言語観は少なくとももう今日の理論としては失格である。 言語学 としてもヒソウであり、言語教育にあっては、余計に罪深い。ことばが通じない悲しみを背負わぬ言語教育など、信じられるだ ろうか? 百歩譲って、コード論者の言い分を一旦、受け入れてみてもよい。そうしたコード論を理論的に成立させるためには、少なく とも次の二つの本質的な部分を解決せねばならない。 第一に、異なった言語の間だけではなく、実はいわゆる同じ言語の話し手の間でも、つまり同じコードの間でも、ことばが意 24一般入試A問題

解決済み 回答数: 1
現代文 高校生

問10 ④ 問11 ③,⑤ 問12 ①,④ について解説お願いします!🙏💦 答えは上から、1,4,3です。

的に成立 (2023AG-F-10) ほない。 解釈されて れるもので ~⑤のう 一国 11- わかりやすい。 第二問 次の文章を読み、設問 問1~問12)に答えよ。 理系の学問については、高度な計算や化学実験やプログラミングができるようになって新しいものを設計することが可能に なったり、機械や人体の構造やメカニズムについて正確に理解することで問題が起こった場合の対処ができるようになったりす るなど、その学問を修めることでどのような能力が得られて、そこからどのような価値を生み出せるようになるかは、 A それに比べると、人文学を修めた人が得られる能力とそれによって生み出される価値とは、曖昧にしか論じられないものである。 また、理系の学問によって得られる能力が 一的なものであることが多い一方で、文系の学問によって得られる能力 は「批判的思考」であったり「想像力」であったりと、存在を証明することが難しいものである点も厄介だ。 ある人がどのよう な技術を身につけているかについては、その技術に対応する課題に取り組んでそれを解決することで客観的に証明することがで きるが、想像力や批判的思考についてはそういうわけにはいかない。 さらには、高度な技術はどこかでそれを学ばなければ習得することが不可能である一方で、批判的思考や想像力は、それ自体 は大半の人にもとから備わっているものである。 人文学を学ぶことはこれらの能力を深めさせてはくれるが、人文学を学ばなく 優れた批判的思考や想像力を発揮できる人はいるだろうし、その逆の場合もあるだろう。 人文学は、せいぜいが「涵養」と いう程度のはたらきしかできないかもしれない。 それでは、人文学は社会に対してどのような貢献をしており、どのように役に立っているのか? 幾人かの論者が指摘しているのは、「民主主義が健全に機能するためには、一定数以上の市民が人文学に触れて、批判的思考 や想像力を適切に培わなければならない」ということである。 (注1)みたになおずみ たとえば、日本の哲学者である三谷尚澄は、著書 『哲学しててもいいですか? 文系学部不要論へのささやかな反論」のなか で、哲学を学ぶことの意義は批判的思考とともに「箱の外に出て思考する力」を養うことである、と論じている。 かんよう (2023AG-F-12) 一国 13-

解決済み 回答数: 1
現代文 高校生

問5の答えは④だったのだすが、2,4,5の選択肢について解説をお願いしたいです。

然的に成立 (2023AG-F-10) はない。 解釈されて れるもので ~⑥のう 一国11 第二問 次の文章を読み、設問 (問1~問1)に答えよ。 (+) 理系の学問については、高度な計算や化学実験やプログラミングができるようになって新しいものを設計することが可能に なったり、機械や人体の構造やメカニズムについて正確に理解することで問題が起こった場合の対処ができるようになったりす など、その学問を修めることでどのような能力が得られて、そこからどのような価値を生み出せるようになるかは、人体で わかりやすい。 それに比べると、人文学を修めた人が得られる能力とそれによって生み出される価値とは、曖昧にしか論じられないものである。 また、理系の学問によって得られる能力が 」的なものであることが多い一方で、文系の学問によって得られる能力 A は「批判的思考」であったり「想像力」であったりと、存在を証明することが難しいものである点も厄介だ。ある人がどのよう な技術を身につけているかについては、その技術に対応する課題に取り組んでそれを解決することで客観的に証明することがで きるが、想像力や批判的思考についてはそういうわけにはいかない。 さらには、高度な技術はどこかでそれを学ばなければ習得することが不可能である一方で、批判的思考や想像力は、それ自体 は大半の人にもとから備わっているものである。 人文学を学ぶことはこれらの能力を深めさせてはくれるが、人文学を学ばなく (1) かんよう ても優れた批判的思考や想像力を発揮できる人はいるだろうし、その逆の場合もあるだろう。 人文学は、せいぜいが「涵養」と いう程度のはたらきしかできないかもしれない。 それでは、人文学は社会に対してどのような貢献をしており、どのように役に立っているのか? 幾人かの論者が指摘しているのは、「民主主義が健全に機能するためには、一定数以上の市民が人文学に触れて、批判的思考 や想像力を適切に培わなければならない」ということである。 (注)みたになおすみ たとえば、日本の哲学者である三谷尚澄は、著書『哲学しててもいいですか?文系学部不要論へのささやかな反論』のなか (3) で、哲学を学ぶことの意義は批判的思考とともに『箱の外に出て思考する力」を養うことである、と論じている。 (2023AG-F-12) 一同 13-

解決済み 回答数: 1
現代文 高校生

〰(1)のピンクで書き込んでるとこの漢字なのですが、新規だと思ったし、答え見てから読んでも新規と新奇で区別しようがないと思うのですが…( ⍨ )

肘に成立 (2023AG-F-10) ない。 釈されて るもので ~⑥のう 一国11- 第二問 次の文章を読み、設問 問1~問12)に答えよ。 ( 理系の学問については、高度な計算や化学実験やプログラミングができるようになって新しいものを設計することが可能に なったり、機械や人体の構造やメカニズムについて正確に理解することで問題が起こった場合の対処ができるようになったりす るなど、その学問を修めることでどのような能力が得られて、そこからどのような価値を生み出せるようになるかは、具体的で わかりやすい。 それに比べると、人文学を修めた人が得られる能力とそれによって生み出される価値とは、曖昧にしか論じられないものである。 また、理系の学問によって得られる能力が「 A 」的なものであることが多い一方で、文系の学問によって得られる能力 は「批判的思考」であったり「想像力」であったりと、存在を証明することが難しいものである点も厄介だ。 ある人がどのよう な技術を身につけているかについては、その技術に対応する課題に取り組んでそれを解決することで客観的に証明することがで きるが、想像力や批判的思考についてはそういうわけにはいかない。 さらには、高度な技術はどこかでそれを学ばなければ習得することが不可能である一方で、批判的思考や想像力は、それ自体 は大半の人にもとから備わっているものである。 人文学を学ぶことはこれらの能力を深めさせてはくれるが、人文学を学ばなく ても優れた批判的思考や想像力を発揮できる人はいるだろうし、その逆の場合もあるだろう。 人文学は、せいぜいが「涵養」と いう程度のはたらきしかできないかもしれない。 それでは、人文学は社会に対してどのような貢献をしており、 どのように役に立っているのか? 幾人かの論者が指摘しているのは、「民主主義が健全に機能するためには、一定数以上の市民が人文学に触れて、批判的思考 や想像力を適切に培わなければならない」ということである。 (注)みたになおすみ たとえば、日本の哲学者である三谷尚澄は、著書「哲学しててもいいですか? 文系学部不要論へのささやかな反論」のなか (3) で、哲学を学ぶことの意義は批判的思考とともに「箱の外に出て思考する力」を養うことである、と論じている。 かんよう (2023AG-F-12) 一国 13- 1

解決済み 回答数: 1
現代文 高校生

①が本文の内容として適切でない理由がわからないです。

(ウ) コンティ Ⅰ期(教科型)問題 そんな反転した構造が生きるということのコンテイにはあるようです。 私たちは縁起的な偶然を、のちに因果的な必然へと読みかえ、経験し直します。 偶然とは、過去と現在が物語化されていない 状態であり、「この現在」が未来から物語化されるとき、偶然へと変化します。 この時間のあり方は、「利他の時制」と深くかかわっています 利他とは、「とっさに」「ふいに」「つい」「思いがけず」行っ たことが他者に受け取られ、利他と認識されたときに起動するものです。 その行為が利他的であるか否かは、行為者本人の決め るところではありません。利他はあくまでも受け取られたときに発生するものであり、事後的なものです。「利他」 という現象 は、「この現在」の行為が受け手によって「利他」として意味づけられた未来において、起動するのです。これは偶然必然と 同じ構造です。 特定の行為が利他」へと昇華されたとしても、行為者に相手から直接、返礼があるわけではありません相手に直接的な 互恵関係を強いると、相手に「負い目」や「負債感」を押しつけることになり、次第に支配/被支配の関係が立ち上がります。 私たちは、直接的な見返りを求めてはいけません。 そのことで利他の構造は、一気に支配の構造へと転化します。 ここで出てくるのが、接互恵という関係性です。 これは、特定の行為が利他の連鎖を生み出し、結果的に自己に送ってきて、 利益がもたらされるというものです。 自分の行った行為やギフトのお返しが、その行為の受け手から直接なされるのではなく、 まわりまわって自分に利益をもたらすという循環システムが間接互恵です。 これって、どうでしょう? 利他や贈与の議論は、時に「直接互恵は問題がある一方で、間接互恵こそが重要」という結論になりがちです。 確かに、間接 互恵は円環的な相互依存システムであり、 連環する世界のあり方を引き受ける点で、重要な意味を持ちます。私も利他の可能性 は、この間接互恵関係に行き着くと思います しかし、注意しなければならないことがあります。それは、間接互恵が前提となると、「いいことをすれば、将来、利益となっ 返ってくる」という思いが共有され、行為の動機づけになっていくという点です。 将来の利益を期待した行為は、贈与や利他ではなく、時間を隔てた交換になっていますよね。今の行為が、将来の利益と等価 交換されることが想定されており、利他の可能性が捨象されています。 「今、損をしても、いずれ間接的な互酬関係によって、 利益がもたらされる」という考えは、とてもDです。「将来の自分に利益がありますように」と願って渡すプレゼントは、 かなり利己的なものです。 ではなく、間接互恵を利用した交換に他なりません。 他は未来への投資ではありません。 ここに、ジャック・アタリの「合理的利他主義」の問題があります。他者に対して利他的であることが、自分に利益の最大化 をもたらす。 だから、利他的な振る舞いをすることこそが、合理的な選択である。 そうアタリは言います。 この「合理的利他主義」は、まさに未来への投資としての利他ですよね。つまり、利他の事後性をあらかじめ先取りする行為 です。 これは危ない、と私は強く思います。 なぜならば、「合理的利他主義」は、自分が利他だと思った行為が、そのまま利他として受け取られることを前提としている からです。 「利他的な行為」を自明のものとしてしまうと、 E 私がいかに相手のことを思って行ったことでも、相手にとっては「困ったこと」であったり「ありがた迷惑」であったりする ことがあります。利 は利己以外の何物でもありません。「合理的利主義」には、相手を制御し、コント ロールしようとする欲望が含まれています。 システムは、重要です。しかし、これも他の事後性に規定されています。行為を行う時点で、未来は未知の存在で す。 互恵もまた未来の結果であって、事前にコントロールすることはできません。 私たちは時に「こんないいことが自分に起こったのは、あのとき、自分が利他的なことをしたからだ」と思い、過去の行為 ともたらされた 関係で捉えようとします。しかし、あらゆる因果の物語は、事後的にされるものです。 これは国立博物館のに似ています。 私は外国に行くと、可能な限りその国の国立博物館に行くことにしています。 そこに 古い時代から しかし、多くのネイション(国民の生成したのは近代に されています。 コンチョのない 話をする 店内がコンプしてきた。 これはックコンの失敗だ。 仕事を押し付けようというコンタンが明らかだ (2023AG-F-7) 5

解決済み 回答数: 1
現代文 高校生

開発講座の問題です 問2が分かりません ⑥にイギリスの例があって製鉄が環境破壊を招いている点が似ていたのでここが同値関係となっていて、2の歴史家を選びましたが違いました ここは関係ないんですか? あと⑥の最後の方に書いてある「このため英国の森が破壊しかけた所〜ご理解がcol... 続きを読む

第3問 次の文章を読んで左の問に答えよ。 日本の運命を変えたのは、四世紀ごろから進んでいた朝鮮半島における自然破壊で した。むろん、日本人がやったのではありません。朝鮮人がやったのです。山を掘り くずして、砂鉄を(ト)り製鉄をはじめたのです。 おそろしいばかりの自然破壊でした。 鉄の製(レン)には木炭を必要とします。わず 数トンの鉄をつくるのに、一つの山が裸になるほどの木炭を必要とします。 5 製鉄集団は、おそらく女性や子供をふくめて何百人という単位だったでしょう。 そ れらが、朝鮮の山から山へ移動して、丸裸にしてゆきました。 「むろん、そのあとに植林をするということはしなかったようです。朝鮮の山は、不 幸なことに自然の復元力がよわいのです。むろん、ギリシャ文明が去ったあとのギリ シャの自然ほどではありませんが、朝鮮の山々は乾き、山の土(ジョウ)は風に吹きと 10 ばされて、岩の層が露出するといった風景になりました。むろんこれは、 イ的想 像力でいっているので、三世紀、四世紀の朝鮮には、そのことを書いた文献はありま せん。 三、四世紀の朝鮮半島の製鉄業者たちに話をもどします。 かれらは、遊牧民が草を 求めて移動するように、森を求めて移動するひとびとでした。朝鮮の山々を裸にして 15 しまったとき、はるか南の海に、樹木の多い島々があることを知ったのです。それが、 日本でした。やがていくつものグループが海をわたって、日本にきました。五世紀 第3問 12

解決済み 回答数: 0
1/6