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日本史 高校生

大問2️⃣(1)資料4 東寺百合文書って寄進地系荘園の資料で、山城国一揆の資料は大乗院寺社雑事記だと思うのですが、 なぜ資料4の解答は④になるんですか?

2庶民の台頭 次の史料について,下の問いに答えよ。 史料 1 薪・すみは,惣のをたくべし。 〔22 同志社大 改〕 史料 2 /草武家社会の成長 63 こんしん 他所の人を地下に請人候はで、置くべからず候事。 惣の地と私の地と,さいめ相論は,金にてすますべし。 家売る人の方より,百文には三文ずつ, 壱貫文に (長享2年6月25日) 今晨, 香厳院に於いて叔 和西堂語りて云く。 今月五日越前府中に行く。 其れ以前越前の各力勢賀州に赴く。蒸りと難 いえど とがし とりま (三十) は卅文ずつ, 惣へ出すべき者なり。此旨を背く村人は, 座をぬくべきなり。 このむね せめおと も、一揆衆二十万人、富樫城を取回く。 故を以 て,同九日城を攻落さる。 皆生害す。而して 富樫一家の者一人これを取立つ。 「しょうがい しか とりた 史料3 史料 4 はりま (正長2年1月29日) 播磨国の土民, ごと ◎旧冬の京辺の如く蜂起す。 国中の侍 (文明17年12月11日) 今日, 山城国人集会す。 上八六十歳下八十五歳ト云々。 同 じく一国中の土民等群衆す。 今度両陣の時宜を申し定めんが為と ため ことごと しかのみ げくじょう いたり を悉く攻むるの間、諸庄園代官 加 云々。然るべきか。 但し又下極上の至なり。 ならず ある おのおの 之守護方の軍兵,彼らのために或い (同17日) 両陣 の武家衆,各引き退き了んぬ。山城一国中の国人等申し合わす故 ***** おいおと じ こん おい はたけやま は命を失い,或いは追落さる。 一国の なり。自今以後に於ては ② 両畠山方は国中に入るべからず。 本所 きだい おのおのもと 騒動希代の非法なりと云々。 凡そ土民 の申す所, 侍をして国中にあらしむべ 領共は各々本の如くたるべし。 新関等一切これを立つべからずと ちんちょう 云々。 珍重のことなり。 (文明18年2月13日) 今日山城国人,平等 じょうほうなお からずと云々。乱世の至なり。仍て はっこう おわ てり ⑥ 赤松入道発向しんぬ者。 ごう 院に会合す。国中の掟法猶以て之を定むべしと云々。 凡そ神妙なり。 但し、興成せしめば天下のため然るべからざる事か。 (1) 史料 1.24の出典を,それぞれ選べ。 ひ ① 『今堀日吉神社文書』 ② 『蔭涼軒日録』 ③『善隣国宝記』 ←対中 1470頃成 ⑤『大乗院寺社雑事記』 の「東寺百合文書』 (2)史料2・3・4が説明している出来事は、室町 A B D |2 7 (1) 史料 1 ① 章 史料 2 2 ⑤ではないのか。 史料 4 (4)

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日本史 高校生

入試の問題です。解答が出なかったので採点ができません。どなたか解答お願いします😭

A1 選 日本史 日本史の問題は, 【1】 から 【4】 まである。 (0)7 【1】 次の文章を読んで、下の問いに答えよ。 と呼ばれた人々の居住する北方への進出も 大化改新後,古代国家の形が整えられていく中で, ぬたりのさく 開始された。 まず現在の新潟県に拠点として淳足柵などの城柵が置かれた。 その後, さらに積極的な政策が と交流し、朝貢関係を結んだ。 とられ, B の船団が日本海沿岸部の北方に派遣され、各地のA 一方, 太平洋側でも, 宮城県で柵で囲われた7世紀の囲郭集落が発見されている。 中央政府は、城柵や囲郭 A に対しては物資の支 集落に関東などから住民を移住させ開拓にあたらせ,支配領域を拡大した。 給や政治的地位の授与を行い, 服属関係を結んだ。 8世紀に入ると,活発に城柵が設置され,支配領域の拡大が進んだ。 708(和銅元)年に現在の山形県に 出羽郡が建郡され出羽柵がおかれ、 712 (和銅5)年に出羽国がおかれた。その後,出羽柵は現在の秋田県 に遷され、やがて秋田城となる。 724 (神亀元)年には陸奥国府も置かれた が築かれた。このこ ろ, A 側の反発も見られ,720 (養老4)年には反乱も生じている。 反乱終結後, 税負担の軽減や A への懐柔策による安定化が図られ、その後東北では約半世紀間平和が継続した。 一方で桃生城な どの新たな城柵の設置も行われた。 そして774 (宝亀5) 年の桃生城襲撃に始まる A の反乱が開始 され, 三十数年にわたり戦争状態が続いた。 I その間に, 中央では784 (延暦3) 年に長岡京, さらに794 (延暦13) 年に へと遷都が行われ, オ 政治改革が進められたが, A との戦争も本格化した。 征夷大将軍に任命された E は802(延 暦21)年に胆沢城を築き, 翌年さらに志波城を築いて東北経営の拠点とした。 805 (延暦24) 年に,徳政相 論と呼ばれる議論が裁定され, A との戦いに一応の終止符がうたれた。 にあてはまる語句を書け(人名は氏名)。54/5 問1 文中の A~Eの 2 下線部ア~オに関する問いに答えよ。 アその政策の中で実施された, 民衆に対して農地の支給と収容を行う法制度を何というか書け。 これにより, 一部の A は飛鳥に朝貢し, 6世紀末に建立された日本で最初の本格的寺院の 西側の広場で儀礼を行ったことが記録されている。 この寺院の名を書け。 @ 各地の国府に中央から派遣される役人を総称して何というか書け。 エこの中で780 (宝亀11) 年に乱をおこし, C を焼き落とした人物の氏名を書け。 この改革を進めたのは何天皇か書け。 53/5

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日本史 高校生

日本史が分かりません!! 答え教えてください!!

討幕の 計画 討幕へ 鎌倉幕府の滅亡 討幕の 背景 5 武家社会の成長 混乱と 対立 室町幕府の成立 統(後深草上皇系)と2 →幕府介入による両統迭立 →朝廷政治を左右 うちかんれい (2)執権北条高時,内管領長崎高資による得宗専制に対し御家人の不満が高まる (3) 畿内近国で悪党の活動が活発化 後醍醐天皇(大覚寺統), 天皇親政を実施 →討幕を計画→正中の変(1324) 3 くすのきまきしげ もりまし (1) 楠木正成 (1331) 護良親王 (1332) ら蜂起、後醍醐天皇は隠岐を脱出 (1333) ↓ 鎌倉幕府滅亡 (1333) 建武の新政 新政 後醍醐天皇 年号を1 組織 [中央] (2) 幕府軍の足利高氏(のち尊氏)が寝返り→4 を攻撃 ( 1333) (3) 5 ] は鎌倉を攻撃 (1333) 北条高時ら北条一門は自殺 天皇 統 (亀山天皇系) の対立 ○南北朝の動乱 北朝 こうごん ] (1331) 失敗 (天皇, 隠岐へ配流→光厳天皇即位) □ (警備) □と改元, 幕府・院政や摂政・関白を否定→天皇親政をめざす 2 ] (重要政務)...天皇親裁 恩賞方 (恩賞事務) ・・・公家・武家が担当 雑訴決断所(訴訟関係の裁判)・・・ 幕府の引付を受け継ぐ 3 なりよし 鎌倉将軍府 (成良親王を派遣, 補佐 : 足利直義) のりよし 14 ](義良親王を派遣,補佐: 北畠顕家) [地方] 国司・守護(併置) りんじ (1)土地所有権の確認を天皇の綸旨で実施→武士社会の慣習を無視→武士の不満・抵抗を招く (2)足利尊氏,征夷大将軍を望むが認められず (3)5 ] (1335)... 北条時行 (高時の子)が鎌倉を攻略 ↓ ひるがえ 足利尊氏は鎮圧を名目に関東へ下り反旗を翻す (1) 足利尊氏, 京都に1 ■ (持明院統) を擁立 (2) 2 6 1334年鴨川のほとりに 掲げられたといわれる。 (政治方針17カ条) を発表→幕府は自永式目を思いた。その補足を3 □とよぶ

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日本史 高校生

分からないんです… 教えてください🙇‍♀️🙇‍♀️🙇‍♀️

鎌倉幕府の滅亡 (1)1 討幕の 背景 討幕の 計画 討幕へ ■統(後深草上皇系) と 2 □統 (亀山天皇系) の対立 てつりつ →幕府介入による両統迭立→朝廷政治を左右 うちかんれい たかすけ (2)執権北条高時,內管領長崎高資による得宗専制に対し御家人の不満が高まる (3) 畿内近国で悪党の活動が活発化 後醍醐天皇(大覚寺統), 天皇親政を実施 →討幕を計画→正中の変(1324) 3 くすのきまさしげ もりよし (1)楠木正成 (1331) ・ 護良親王 (1332) ら蜂起, 後醍醐天皇は隠岐を脱出 ( 1333 ) (2) 幕府軍の足利高氏(のち尊氏)が寝返り→4 ] を攻撃 ( 1333) (3) 5 ] は鎌倉を攻撃 (1333) 北条高時ら北条一門は自殺 北朝 ↓ 鎌倉幕府滅亡 (1333) ●建武の新政 新政 後醍醐天皇 年号を1 組織 2 [中央] 恩賞方 (恩賞事務) ・・・公家・武家が担当 雑訴決断所(訴訟関係の裁判)・・・ 幕府の引付を受け継ぐ 3 ](警備) なりよし 鎌倉将軍府 (成良親王を派遣,補佐: 足利直義) 天皇 南北朝の動乱 . こうごん ] (1331) →失敗 (天皇, 隠岐へ配流→光厳天皇即位) ]と改元、幕府・院政や摂政・関白を否定→天皇親政をめざす (重要政務)...天皇親裁 (1) 足利尊氏, 京都に1 (2) 2 のりよし □ (義良親王を派遣, 補佐: 北畠顕家) ar [地方] 国司・守護(併置) ar りんじ 混乱と (1) 土地所有権の確認を天皇の綸旨で実施→武士社会の慣習を無視→武士の不満・抵抗を招く 対立 (2)足利尊氏,征夷大将軍を望むが認められず (3) 5 ■ (1335) 北条時行 (高時の子) が鎌倉を攻略 ↓ ひるがえ 足利尊氏は鎮圧を名目に関東へ下り,反旗を翻す St (持明院統)を擁立 ] (政治方針17カ条) を発表→幕府は貞永式目を用いた。 その補足を3 Ar 6 1334年鴨川のほとりに 掲げられたといわれる ]とよ

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日本史 高校生

大至急です! 日本史でわからない箇所があるので教えていただきたいです 【問】当時貿易を認めていたオランダと中国船以外の外国船が日本近海に現れ、薪や要求したり通商を要求するようになって、幕府がたどり着いたのがこの打払い、つまり攻撃するという方針であった。1837年、アメリカ... 続きを読む

水野忠邦は, なぜ天保の改革を おしすすめたのだろうか。 海辺の村 ②お咎め 一体いきりすニ限 らず、 候処、専要の事に候条、油断無申し付けらるべく候。 察度。ハ之有間敷候間、 二念無、 打払を心掛、図を失わざる様取計 等差出すに及ばず、其分二差置、若押て上陸致し候ハゞ、搦取、又 二有合候人夫を以、有無に及ばず、一図二打払、逃延候ハゞ、追船 打留候ても苦しからず候。...…. 右等の船万一見損、打誤候共、御 間、以来何れの浦方二おても、異国船乗寄候を見受候ハゞ、 其所 南蛮、西洋の儀は、御制禁邪教 (『御触書天保集成』) の国二候 候察は等間 処度と打差 有吉 以体 に候す候来い までに人に何いき 180 るも及夫ぷれり をす ず以浦 ① 異国船打払令D] 追其 計御又船所 候 4. 幕藩体制の動揺 ぐんかん ぶんか 10 |海防体制の強化 1808 (文化5)年には,イギリス軍艦フェートン号が、 交戦国であったオランダ商船を追って, 長崎に入港 と蛮社の獄 30 する事件がおこった。その後も,イギリス船やアメリカ船が日本近海を 航行していたので,幕府は,1825 (文政8)年に異国船打払令を出して、 海防体制を強化した。そのため,1837(天保8)年,日本人漂流民を護送 するとともに,通商を求めて浦賀に来航したアメリカ合衆国の商船モリ うらが ソン号は,打払令によって砲撃を受けた。こうしたできごとに対し、簡 がく ぼじゅつゆめものがたり わたなべかざん たかのちょうえい _しんきろん 学者の渡辺崋山は「慎機論」 を,高野長英は『戊戌夢物語』をあらわし、打 ばんしゃ ごく ち払いの不当を論じたため、 幕府によって処罰された ( 蛮社の獄)。 てんもん はん 19世紀になると,幕府も洋書の翻訳を開始して, 美・地理・軍事な どに関する新知識の吸収につとめ, 多くの諸藩もならった。江戸と長崎 で始まった蘭学は,京都, 大坂, さらに全国各地に広まった。 オランダ 商館の医師として長崎に来たシーボルトは, 鳴滝塾を開いて, 医療とと らんがく しょうかん なるたきじゅく 1796~1866 たかのちょうえい もに西洋の学問を教え, 高野長英らを育てた。 1828年, シーボルトは、 帰 国の際、持ち出し禁止であった日本地図の所持が発覚して国外追放の処 たかはしかげやす 分を受け, 地図を渡した幕府天文方の高橋景保らも処罰された。 1785-1829 p.184 おおしおへいはちろう ちょっかつ 大塩平八郎が幕府の直轄都市 内憂外患 ほうき てんぽう き きん 大坂で武力蜂起したのは、天保の飢饉で市中の米 が不足しているさなかの1837年3月 (天保8年2 ちんあつ 月) であった。 蜂起はすぐに鎮圧されたが, 大塩は まちぶぎょうしょ よりき もともと, 大坂町奉行所の与力という重要な役職 にあり、著名な学者でもあったため, 人々は彼の 行動を知って衝撃を受けた。 蜂起の情報は,噂も うわさ まじ もんてい 交えながら全国に広がり, 各地で「大塩門弟」 「大塩 「残党」を名のる武力蜂起や一揆を誘発し, 幕府に動 いっき ゆうはつ 揺をあたえた。 そもそも前年からこの年にかけて 全国で150件以上の百姓一揆が発生していた。 飢 ひゃくしょう ないゆう 饉に起因するこれらの出来事は、 国内における深 刻な事態, すなわち 「内憂」 として受けとめられた。 ちょうどこのころ, 外国船がひんぱんに日本近 辺に接近していた。 18世紀末から19世紀初頭まで は、ロシア船の蝦夷地への接近がおもな問題だっ たが,1810年代以降は,太平洋側で,イギリスを 先頭に欧米諸国の船の動きがみられるようになっ た。当時,これらの国々は,産業革命を成しとげ えぞち 第3編 近世の日本と世界 sto + wo きょてん て資本主義市場を拡大し、 世界各地に貿易の拠点 ほげい を求めつつあった。 捕鯨船の活動もさかんとなり 日本近海でめだち始めていた。 こうした動きは, 外国勢力が日本にあたえる脅威,すなわち「外患」 として受けとめられた。 きょうい がいかん 江戸幕府は,将軍が武力で日本列島の内部や周 辺海域の平和を維持し、 邪教としてのキリスト教 から人々を守ることで、社会秩序を安定させてい るという建前をとっていた。 このまま外患を放置 すると、将軍の権威は低下し、そのことが内憂を いっそう誘発することにもなりかねない。このよ うに外患が内憂と結びつくことを、幕府は非常に おそれていた。 こうした事態を打開するためには、将軍のもと で軍事力を強化して集中させ、海防体制をととの えつつ,将軍の権威を維持することが必要だと幕 この考えが、天保の改革の基本的な 府は考えた。 姿勢となっていったのである。

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