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世界史 高校生

左下のところなんですが奴隷州か自由州どちらになるかで連邦議会での両派の議席に直接影響したとはどういうことでしょうか? 両派とは奴隷を認めているか反対しているかでしょうか? また直接影響したとありますが具体的にどのように影響したのでしょうか 解説お願いします🙇‍♂️

党に対し、北部で奴隷制廃止などを目的とする共和党が正式に発見 1818(イギリスへ設渡) イギリス製品の輪輸入に対抗するために保護貿易をのぞみ, 奴隷制に は批判的であった。 西部の人口が増えて新州が誕生すると, 南部と 受けない自由貿易をのぞんだ。 北部では当初から工業がさかんで 1818( オレゴン ルイジアナ 1846 (国境協定) 初の大 ボストン (フランスよら) シカゴ 陸横断 鉄送159)。 やサンフランシスコ カリフォルニア 1848 1783 (パリ条約で、 イギリスより 州 ィラデルフィ スパーク 割譲) 回マニフェスト=デスティニー (「明白な運命」)西部開拓は神か ら与えられた「明白な運命」であっ た。電信の線をもつ「進歩の女神」、 鉄道、駅馬車が描かれている。 メキシコより割) テキサス 1845(併合) 1853 フロリダー 1819 (スペインより買収) メギシコより買収) メキシコ 500km 12アメリカ合衆国の発展 アメリ力がカリフォルニアを獲得した1848年 地に金鉱が発見され, 一握千金を夢みる人々がおしよせて人口が急増した ドラッシュ)。また, 1867年にはロシアからアラスカを買収した(→p.12g) f4ゲティスバーグの戦 により北部の勝利が決定 いっかくせんきん ばいしゅう 南北戦争 しかし、フランスなどとも通 商を続けたため,イギリスの海上 封鎖策と衝突し, アメリカ=イギ リス(米英)戦争(1812~14年)が おこった。 0 4 アメリカ合衆国の発展 ようさ しょうとつ して合衆国から分 独立後の合衆国は,国内の整備と国力の充実 つとめた。そのため, 極力, 戦争や対外紛争を 5 州はあくまで合衆 西部開拓 に南北戦争がおこ 0 1861~65 Word フロンティア 開拓された地域と未開拓地域と の境界。 さけ,フランス革命やナポレオン戦争にも中立を保った。また >p.102 1823年には,大統領モンローが,南北アメリカとヨーロッパの 地を与えるホー」 >p.98 につけ,当初の 任1817~25 かんしょう 互不干渉を主張するモンロー宣言を発し、孤立主義は以後の合衆組 外交の基本方針になった。その一方で,合衆国は着々と領土をひろ げていった。領土が西に拡大するにつれて, 人々は西部に進出し、 フロンティア(辺境,開拓線)を西方へと移動させていった。きい と,南部は国際 2 北部には,東海岸を中心に, ニューヨーク· ボストン·フィラ デルフィアなどの都市が発展した。 >p.106 かくだい 戦後の発展 10 2。 へんきょう かいたくせん 鉄道が完成して かんきょう くっ しい自然環境にも屈することなく自分の運命を切りひらいていった 彼らの開拓者魂は, フロンティア=スピリットとよばれてアメリオ 人気質の一つになり, 民主主義の発展に寄与した。 場も拡大して、 だましい ランテーション きしっ して工業化が 一の工業大国 15 西部の発展とともに, 南部と北部の対立が深 った。南部では,黒人奴隷を使う綿花プラン 南部と北部 合3「アンクル=トムの小屋」のさ し絵 ストウ夫人による小説「ア 国内市場の拡 こくじん どれい めん か ふきゅう への進出にい ンクル=トムの小屋」 (1852年)は、 じんどう 人道主義の立場から奴隷制反対の 気運を高めた。 0 きうん 黒人と先住 0 新しい州が南部のように奴隷 を認める奴隷州となるか, 北部の ような奴隷制を禁止する自由州と なるかは,連邦議会での両派の議 席数に直接影響したため, はげし い争いになった。 ひはん 南部では解 20 先住民の土 れんぼう きばん げきげん 口を激減さ はいし しゃ ぎゃくさつ した。 赦なく虐殺 |114 I部 5章 19世紀の世界の一体化と日本

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世界史 高校生

世界史B【至急】 ()の中に入る語句を教えてください‼️75問もあって申し訳ないのですが、よろしくお願いします🙇‍♀️🙏

次の文章の )に適する語句を入れ、 ノ帝の死後、( 2 ) 年にローマ帝国は東西に分裂した。東ローマ帝国は、別名をビザン H国のといい、( 3 ) 年にオスマン皇帝に減ぼされるまで長く存続した。一方西ローマ帝国は 4)年、ゲルマン人傭兵隊長( 5 )によって滅ぼされた。( 6 )人の侵入により、(7 ) 、グルマン人②の一派 ( 8 ) 族が、ライン川·( 9 ) 川を越えてローマ領内に移住してきた 天機に大移動を始めた。西ローマ帝国の滅亡後、西ヨーロッパにはゲルマン人国家が成立して たが、その中でも強勢を誇ったのが、フランク王国である。フランク王国では、481年、( 10 ) がメロヴィング朝を創始し、( 11 ) 派に改宗したことで、 発展の基礎礎を固めた。 メロヴィング朝では次第に家政の長官である宮宰が力を持ち、 特に( 12 )は732年、( 13 ) の戦いでイスラム勢力③を破り、 実権を握った。その子、( 14 ) は教皇の支持を得て、メロヴィン グ朝を廃し、( 15 ) 朝を創始した。教皇は、ビザンツ皇帝( 16 9と、やむをえない事情④からそれに対抗せざるを得なかったが、西ローマ帝国滅亡以来、政治的保 護者を失っていたため、フランク王国との結びつきを求め、(15) 朝を承認した。 その見返りに教皇は (14)から( )が726年に( 17 ) を出 18 )地方を寄進され、これ以来教皇領という経済的基盤を得た。 さらに教皇( 19 ) は、(14)の子カール大帝⑤を ( 20 ) 年に戴冠した。このできごとは、政治的には西ヨーロッパ世 界の再統合、宗教的には東西教会の分離、文化的にはローマ·キリスト教·ゲルマンの文化を融合さ せたという意義がある。 カール大帝の死後、843年に( 21 ) 条約、870年に( 22 ) 条約が結ばれ、フランク王国 は分裂した。西フランク王国は後のフランスとなり、東フランク王国は後のドイツのもととなり、中 部フランク王国は後のイタリアのもととなった。各国で (15) 家が断絶すると、イタリア地方では都 市·諸侯の勢力が分立する状態となり⑥、同じく西フランク王国では ( 23 ) 伯ユーグ=カペーが カペー朝を創始したが、諸侯との力の差はなく、王権は弱体であった。 この頃のヨーロッパは、ノルマン人⑦やアジア人·スラブ人®、イスラム勢力などの外敵の侵入を 受けるようになった。中世ヨーロッパではローマの ( 24 ) 制とゲルマンの( 25 ) 制を基礎と して成立した封建制が成立し、 そのもとで主従関係を結ぶ国王や諸侯などは荘園③領主でもあった。 このような社会を封建社会といい、その性格は時代とともに変化していった。 一方東フランクでは、919年から( 26 ) 朝が始まり、第2代の王( 27 )は955年( 28 ) の戦いで( 29 ) 人を倒すなどした功績が認められ、( 30 )年に戴冠された。これにより ( 31 ) 帝国が成立した。皇帝は、聖職叙任権を握って教会組織を統治に利用する帝国教会政策を行い、 また その強化のために ( 32 ) 政策と呼ばれる遠征を行った。皇帝が (32) 政策に没頭することは、帝国 内における諸侯の台頭を招き、 帝国の分裂、 衰退へとつながった。 一方9世紀から10世紀にかけて、カトリック教会@では、( 33 ) や妻帯に象徴されるような腐 敗、世俗化が進んでいた。 この状況を刷新すべく、フランス中部で開墾運動を行った 道会や托鉢修道会などが活動する中、 改革の中心となったのが、 ( 35 道院出身の(36 ) は、聖職叙任権を教会に譲るよう、皇帝( 37 ).に求めたが、 応じなかった。 そのため、( 38 ) 年教皇は、皇帝を破門して屈服させた。このできごとを ( 39 ) という。 聖職 叙任権闘争は1 122年 ( 40 ) により終結した。 このような教皇権の拡大は、 耕地を三分して春耕地· 秋耕地·休耕地とする ( 41 ) や重量有輪率 などの普及によって、 ヨーロッパの農業生産力が向上したことなどに伴い、 「キリスト教世界の拡大」 という動きへとつながっていく。 例えば ンキス②タがあるが、中でも1096年教皇 ( 43 ) が ( 44 ) 公会議で提唱したことにはじま る十字軍はその象徴といえる。第1回十字軍では聖地をイスラム教徒から奪還し、( 45 ) 王国が建 国された。しかし、( 46 ) 朝のサラディンによって、反撃を受けたため、 第2回· 第3回の十字軍 が編成された。 特に第3回十字軍では、イギリス王( 47 )、フランス王( 48 )、皇帝 ( 4 )が軍を率い、十字軍の最高潮期と言える。一方第4回十字軍は、 ( 50 ) 商人の策謀により、 商敵である ( 51 ) を占領し、( 52 ) 帝国を建設しており、 宗教的性格は弱まった。 第5回 十字軍は皇帝 ( 34 )派修 )修道院であった。(35) 修 42 )川以東への東方植民①、教会の開墾運動、レ=コ 9 53 )によって行われ®、 外交交渉により聖地を一時奪回した。 第6·7回十字軍 フィリップ

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