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世界史 高校生

歴史総合です! 一問一答形式で復習したくて、「共和制」「第一共和政」「徴兵制」「紡績」「織布」について知りたいです

→1756~1763年、ヨーロッパで戦争が頻発するなか、フランスと対抗(フレンチインディアン戦争) 北アメリカ植民地→イギリスやフランスなどの植民地競争場所、一年戦争によりイギリスのものとなった 1 七年戦争 3 印紙税 →1765年、イギリスの財政赤字を補うために、北アメリカ植民の色にしようとした、直接課税 ボストン茶会事件 →中国茶の販売権を東インド会社に独占させた緑果、植民地の人が抵抗運動した →イギリスが港を軍事封鎖するようになると、各植民地の代表が抗議をはじめた 5大陸会議 6 ワシントン 7 アメリカ合衆国 8 共和制 9 アメリカ独立宣言 10 三権分立 11連邦制 12 全国三部会 13 国民議会 →1775年の戦闘時の総司令官、翌76年に独立宣言をする →フランス・スペインの協力によりイギリスに勝利、1783年に独立、世界初大統領制国家 ← →すべての人間は神によってつくられ、ゆずることのできない権利がある。女性は参政権がない →司法裁判所)、行政(内閣)、立法(同金)に権力が分けられてる →中央政府の権力を立 →植民地側を支援した赤字として国王などが課税をこめたが、免税特権身分が抗り、 →自ら真の国民であることを宣言(キニスコートの誓い/技場の若い) 14 バステューコ牢獄の襲撃 ルイ16世が自民を鎮圧しようとした、襲撃により、新議会を承認 15 人権宣言 16 フランス革命 17 ヴァレン逃亡事件 18 第一共和制 19 微兵制 20恐怖政治 約170年ぶりにかく →アメリカ独立宣言が参考、国民主権、人間の自由、法や権利における平等など掲げる →これまでの政治の変わりよう、周辺諸国が革命の妨害を試みた。 →ルイ16世がオーストリアへの逃亡を試みた、見つかり処刑 -> ← →政府の施策に反対する者を弾、処刑 21 ナポレオン・ボナパルト→元軍人、政治が不安定なもか権力を握った。 ココナポレオン1世 1804年、国民投票により即位、フランス空帝としての名前、第1帝政(皇帝の政治) 23 民法典 →ナポレオンが内政にも力を注ぎに布した 24大陸封鎖令 25 ロシア連 26解放戦争 27 ワーテルローの戦い 28三角貿易 29 紡績 30織布 31 蒸気機関 32 資本家 33 労働者 34 産業革命 35 オスマン帝国 36 世界の工場 37 工業化 38軍事革命 3蒸気船 40 鉄道 →イギリスに海戦で敗れ、経済的に服従させる方針に転換 →鎖令の効果が薄く、ロシアが命令を無視したことから行った →1812年遠征で大敗し、ナポレオンの支配から解放し求めた戦争、ナポレオンは退位 →退位したナポレオンが再び皇帝の座につくが、敗れて流刑 ← → → 黒人奴隷からプランテーション商品を持ち帰り、アフリカに売り込み、また奴隷をかう →炭坑での排水に使用、初期の動力は馬や水力だった →資本ともち労働者を雇用する →資本家にやわれる。お金を稼ぐために働く 技術革新と経営・労働形態の変革 →現在のトルコ →イギリスを中心とした国際的な分業体制をつくりあげた ← 産業革命を経て、機械化工業が経済の主役になる過程 →16世紀のヨーロッパで鉄砲・大砲が戦争で使用されるようになった →19世紀初めにアメリカで実用化された、のちに蒸気機関の力だけで運航 →ジョージ・スチーブソンが発明、1825年イギリスでの蒸気鉄道の運行が開始 →鉄道レールをしくこと

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世界史 高校生

問題 奴隷の輸送が行われた背景には何があったか、説明している本文に下線を引こう どこか教えてください🙏 とても見づらくてすみません🙇‍♀️

どの 巻頭 30 ト教の布教も進められ、フランシスコザビエルが九州を中心に活動した。 1506~52 から ガ 17世紀にはオランダの東インド会社がポルトガルに武力で対抗しなが ら交易に参入し、江戸幕府のヨーロッパ唯一の貿易相手となった。さらに、 日本 p.52 p.19 ジャワ島を中心に植民地も広げた(後のオランダ領東インド)。 イギリスも、 東インド会社を設立して東南アジア進出を目指したが、オランダと争って 敗れ断念した。その後、進出先をインドに変えたことで、17世紀末には、 ヨーロッパ諸国の間で対アジア交易の主導権を握った。 18世紀のアジア にぎ p.51 ヨーロッパの アジア交易参入 16世紀に入ると、ポルトガル・スペインがインド 洋交易に参入した。 ポルトガルはマカオに、スペイン きょてん 巻頭 29 はマニラに軍事拠点を築き、日本や中国との交易にも乗り出した。キリス 北アメリ たいこう 1000 10 交易は、アフリカ回りの航路が陸路を圧倒するようになった。 あっとう 史料 アメリカ大陸と 大西洋三角貿易 きそ 17世紀の北アメリカでは、 イギリスとフランスが 競って植民地を拡大した。 この結果、南北アメリカの、 多くの地域で、先住民の社会と文化が破壊された。 はかいP.29 巻頭32 どれい 15 か ポルトガル・イギリス・フランスなどの奴隷商人は、西アフリカの現地 支配者たちから武器や雑貨と引き換えに黒人奴隷を買い集め、船でプラジ ルやカリブ海の西インド諸島、北アメリカ南部の植民地に輸送した。 植民 地からヨーロッパへは、砂糖・ たばこ・コーヒー・毛皮・銀などが運ばれ た(大西洋三角貿易)。なかでも銀は、インド洋交易などを通じて最終的に 20 中国へと向かった。 この貿易によって、 西アフリカでは、 19世紀までに p.22 約1200万の人々が移動を強制され、人口の減少がみられた。 黒人奴隷の 多くはプランテーション経営者に売られたが、 それは南北アメリカの先住 巻末 1 5 民人口の激減による労働力不足を補うためだった。

解決済み 回答数: 1
地理 高校生

地理総合です。 至急です。 苦手な教科なので、答えでいいので、 教えて欲しいです.

答えはすべて解答欄に書きなさい。 [1] 農林水産業について、 次の問いに答えなさい。 [知・技] (教科書 P.86~P.97 ) (1)農業について,文中の( )に適する語句を答えなさい。 ・農業を行う上で,それぞれの作物が育成するための温度限界が存在す るなど、気温や降水量との関係で(ア)が生じる。 ・農地が少ない市場の近くでは、(イ)などの集約的農業が立地 し、都市から離れるにつれ牧畜などの (ウ) へと移行する。 [1] ア (1) イ ウ (2) (2)農業の形態の変化に関する説明として、誤っているものを一つ 選び, 記号で答えなさい。 [思判 ・ 表] (3) アアジアでは土地生産性の高い集約的稲作農業と集約的畑作農業 が行われてきた。 イ熱帯地域では自然の草地を求める遊牧が行われてきた。 ア ウ西ヨーロッパでは,三圃式農業から商業的な混合農業が普及した。 I 熱帯の植民地では、 商品作物を単一耕作 (モノカルチャー) で大 規模に栽培するプランテーション農業が発達した。 イ (4) ウ H (3) 農業に関連する経済活動にかかわる企業を何というか。 オ (4) 林業・水産業について、文中の( )に適する語句を答えなさい。 ア (5) イ (3点×12) ・木材は、製材・パルプ・合板などに利用される(ア)と,燃料として 利用される(イ)にわけられる。 ・四大漁場には、大陸棚や (ウ)などの浅い海域や, 暖流と寒流がぶつかりあう (エ)があり、早くから漁場とし て開発された。 ・1970年代には各国が水産資源管理などのために自国の沿岸 200 海里までを(オ)に設定する動きが強まった。 (5) 日本の農林水産業について、文中の( )に適する語句を答えなさい。 ・日本の農業は、耕地面積あたりの生産コストはかかるが, (ア)は高い。 ・食生活の変化で米の消費量が減少すると, 米の作付けを制限する(イ)に転じた。

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現代文 高校生

文章の意味が分かりません。 単語とか調べたものの、筆者の伝えたいこと、 各段落の内容が分からないので分かりやすい言葉で教えてほしいです。 問題の解説が掲載されていないため、漢字問題以外、解説お願いできませんか?🥺 シャーペンが私の、間違っていたとこのみピンクで正解を示して... 続きを読む

off ② ひとひととして向き合い、関係を構築すること自体が稀なことだから。 ⑧ 自立した主体の確立こそを理想とする社会の中で育ってきたから。 ④他者との関係性を損なわないためには、互いに適度な距離をとることが必要だから。 ⑥ 関係だけでなく、個人の能力も自分の本質を為すものとして無視できないから。 五日 (解答番号は、第二間で【古文】あるいは【現代文】 のいずれを選択した場合でも1~35 です。) 第一問 次の文章を読んで、設問 (問1~間10)に答えよ。 ひとりの人間と、彼/彼女が最初に出会うことば 〈言語〉との関係は、自明であり必然的であるというよりはるかに、ある種 偶然と事故によって支配されている。ひとりの人間がその誕生時において引きずる言語的ケイプそのものも、すでに複雑で した経路と水をかかえている。そうだとすれば、ことばの獲得とは、生得的な関係による る種の根源的な喪失とのなかから再発見 再獲得されるなにかであることになる。そのときことばは、私たちの生地ではな なものではなく、あ く、移住地であるのかもしれないのだ。 もしそのように考えることが許されるなら、ことばは私たちの存在を根源的に決定づけるなにものかであることをやめる。こ とばと私たちとの関係のなかに、 な属関係・新有関係を前提としない、旅と移住の運動性が生まれはじめる。こ とばはそれ自体として説明されるのではなく、それが言語的な未発の意識とのあいだに保存する記憶や痛みや欲動のほうから 定義され、そのことによってことばは言語的言語外的な認識によってつねに流動の渦のなかに置き直される。 私たちはみな、自分自身の前言語的な存在のかたちを、ことばという場に住みつかせるのだ。言語を とせずに存在する自分自身というものがあって、それをあらためてことばという異土に移り住まわせる。 そのとき、われわれが な手掛かり ことばを使うという行為は、本来的にすでに移住の行為、移民の行為だということになる。私たちはそのようにして日本語の世 さらにいえば、私たちはそのようにして、日本語話者としての「日本人」へと移民した。 ブラジルでは、ればふつう 「グラフィチ」と呼ばれる。 街路の壁々に描かれた、奔放な落書きのような風刺絵。 そもそもイ タリア語で柱や壁に傷をつけて書かれた「掻き文字」を意味する考古学用語が、日常の街路の壁の落書きをさすことはと 定の業界で仲間内だけで使われる僕。 された「グラフィティ」 (Graffiti)を、そのままブラジルのポルトガル語風に発音すれば「グラフィチ」。この国の街で、グラ フィチはあらゆる通りと路地とに満ちている。消されても消されても、人々は色とりどりのスプレーをふたたび持ってきては、 知らぬ間に家々の、シャッターを呟くばかりの想像力の氾濫によって色と線で埋め尽くしてしまう。 落書きが文字だけであれば、それはふつう「ビシャソン」である。 独特の字体に、特のようなことばの断片が踊り、かぶ 文字が歌やのかたちに変容してきだし、壁の平面に陰影の凹凸が生まれ、ことばに色と風合いとかたちが備わりはじ める。俗っぽいことばや政治的なスローガンを書き連ねる(「ビシャール」=壁に落書きを描く)だけのピシャソンにまじって、 時々はっとするほど時的な数行が、うす汚れた壁面に陥っていることもある。 ブラジルのグラフィチやビシャソンの世界の豊能さを、ブラジルを訪ねるはるか以前に私がはじめて知ったのは、デニス・ テッドロックの詩集『夢の暦の日々』のなかの記述からだった。 ニューメキシコのズニ族や、グアテマラのキチェ族の口承文化 や神話の研究で知られる北米の人類学者・民俗学者テッドロックは、ブラジルのカンピーナス市に滞在して特異な詩集のコウソ ウを練っていたとき、町の落書きのひとつに印象的な詩句を発見する。彼はそのポルトガル語の詩句を、こう写し取ってい VAI-SE A PRIMAVERA QUEIXAS DE PASSAROS, LAGRIMAS NOS OLHOS DOS PEIXES テッドロックが住んでいた家からわずかに二ブロックほど離れた路地に書かれていた、このビシャソンの飛び跳ねる奔放 筆跡を想像しながら、私はすぐに(テッドロックもおそらく気づいていない) この詩句の出自を理解した。 24一般入試A問題 (2024 AG-B-1) 介護は介護する介護されるという立場が明確であり、その主体は介護される者であるため、介護される者が介護とい 関係を受け容れることを待つことしかできない。 介護する者と介護される者の間にひととひととの個別的関係が築かれるためには、それぞれが主体と客体としての役割 をバランスよく果たしつつ、対話の機会を十分に持つ必要がある。 春がゆく鳥の嘆き 涙が魚の目に (行く春や鳥啼き魚の目は mmm はしょう 「奥の細道」の矢立初めの句としてよく知られたこの芭蕉の詩句が、ブラジルの地方都市の路地の壁に優美に踊っているの 想像して、私は不思議な興奮にとらえられた。芭蕉の句が、地球の対地点にまでたどりつく三百年をこえる時の道程のなか で経験した無数の声と文字による橋の過程に携帯用の筆入れと墨壺である立」からとりだされた筆記用具によって 聖の手帖の表面に走った毛筆の軌跡が、時を超えて、南米の植民都市の街路の壁の、スプレーによる躍動する落書きへと転 写されるという、筆跡の機知に満ちたはるかなる旅程に。 このビシャソンとなった芭蕉の句において、過ぎゆこうとする「春」はもはや日本的な春の惜別の感傷を宿してはいない。 ブ ラジルの春とは、いったい植物的な陰喩として測られるものなのか、それとも生き物や食べ物の推移として感知されるものなの か、それすらもはや判然とはしない。 ここで悲しく啼く熱帯の鳥とは? アマゾン川の獰猛な魚の目に溜まる泪とは? 日本語 の Haikaiへと転生するあいだに、ひとつの文化が感情の構造として宿していた意味と感覚の図の が、ポルトガル語の 一体が破れ、異形の、しかしみずみずしい力にあふれた別種のポエジーが、一気に侵入する。 自宅の近くの壁にお気に入りの落書きを見いだしたテッドロックは、たしかにこの時の古典日本的起源を知ることはな かったかもしれない。 しかし「夢の暦の日々」という詩集が示すように、彼はブラジルにおいて経験する日常的な出来事と、そ の反映としての夢のイメージとを、彼がよく知るマヤ=キチェ族の暦の形式に置き換えられた日録のなかに書き込んでいった。 「の」の日にはじまり 「一三の死」の日で一回転する精緻なマヤ暦のなかで自らの日常と幻想とを反することで、彼は近 代世界を統べる日常の時間から離脱し、先住民の生きてきた別種の暦との連続性の感覚のなかに入ってゆく。人類学という実践 そのものが異なる時間性の境界を越えてつかのま生きる実践であり、自らがフィールドにおいて生きたはずの別種の時の充足 ふたたび近代的な時間の支配するアカデミーのなかへと回収してしまう逆説的な行為であるからこそ、人類学はつねに幻影 既存の粋を解ょうヒスコ 夢のを「詩」として、フィールドノートと民族誌の余白に分泌するほかはない。 そして、テッドロックの想像力のなか に堆積した、そうしたヨジョウとしてのポエジーの氾濫が、ポルトガル語となった芭蕉の詩句による無意識のによってうな がされたものであることは、かえって芭蕉の転生としてのビシャソンの力を示している。ハイカイは、ここでたしかに、異土に 移住して別種の「時」と季節を渡りながら、ことばと文字がたどる一つの真実の旅の道程を見事に示している。 ブラジルにおいて、俳句をブラジル時のゼンエイ的な運動へと架橋し、芭蕉の評伝的なエッセイを書いた詩人がパウロ・レミ ンスキーである。姓からも察せられるように、彼の祖父母はポーランド系の開拓移民で、さらに彼の母親には黒人の血統も流れ こんでいた。ポーランド系ムラート〈黒い混血児〉のブラジル人。 この特別のケイフの混合に、レミンスキーは大いなる誇りと を感じていたという。(中略) クリチバという日系人も多く住むブラジル南部の街に生まれ育ち、 「日本」と早くから出逢い、若いときに日本語を習 得したレミンスキーが芭蕉と出会うのは、かならずしも驚くべき偶然とは言えなかったかもしれない、とわかる。そしてポーラ ンド系ムラートのブラジル人によって書かれた、ポルトガル語による唯一の「芭蕉伝」は、やはり「奥の細道」の冒頭における 俳聖の漂泊の心持ちを伝えることからはじまる。 あのビシャソンにもあった「奥の細道」の矢立初めの旬が、ここでも引用さ れているのだ。 レミンスキーによるこの句のポルトガル語ヴァージョンはつぎのとおりである。 primavera não nos deixe pássaros chorum lágrimas no olho do peixe 実験・野心弟で (2024AG-B-3) (2024AG-B-4)

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