✨ ベストアンサー ✨
銅が不足して質の悪い貨幣が出回り、人々の信頼を失ったため、貨幣を作っても使われなくなったから。
奈良・平安時代の貨幣(和同開珎〜乾元大宝)は主に銅で作られていたが、平安時代中期になると良質な銅の産出が減少。遠方から銅を運ぶコストも高くなり、鋳造が困難に。
銅が足りないため、貨幣に鉛やスズなどを混ぜ、質の悪いお金を作るようになった。そのため、人々は貨幣を使わず、米や布などの物品で取引する物々交換に戻ってしまった。
信用されない貨幣を作っても流通しないため、政府は鋳造自体をやめ、乾元大宝(958年)を最後に発行停止。その後、日宋貿易で流入してきた宋銭が流通貨幣として使われるようになった。
もう解決しているとは思うのですがコメントさせてください。政府が貨幣を発行するのにはどのような意味があるのかを、まず考えてみましょう。和同開珎を発行したのは、当時、中国のような律令国家を作ることを目指していたので、唐の開元通宝にならって発行したということがまずあります。また、その頃、平城京の造営工事で雇っていた労働者に労賃として支給もしていました。つまり平城京の建設資金として貨幣を発行していた。もう少し進んで考えると、貨幣を発行した利益で平城京を建設したと言うこともできます。貨幣の発行は政府に利をもたらすことでもあったのです。ですから、政府は貨幣を発行するたびに質を落とします。貨幣の製造コストを安くすることで、貨幣発行の利益を大きくしようとします。しかし、質を下げた貨幣を以前と同じ額で使用するのは、使う側にとっては嫌ですよね。そうして政府は貨幣を改鋳するたびに質を落とし、それによって使う側の人びとは貨幣を信用しなくなります。それならば質の変わらない物々交換の方が良いということになるのです。こうして村上天皇の時代に乾元大宝を最後に律令国家による貨幣の発行は終わってしまいます。このことは、中国をモデルとした律令国家を目指すのをやめたと考えることもできます。実際、村上天皇やその前の醍醐天皇の時代は、「延喜・天暦の治」と呼ばれて理想的な政治が行われたと後に評価されますが、実際には律令政治は変質して、例えば地方の政治は国司の最上席者である受領に政治を委任するしくみが取られるようになります。これは中央集権から地方分権への推進とも言えます。また、村上天皇が亡くなった後で安和の変がおこり、摂政、関白が常に置かれるようになり、摂関政治が本格的に始まります。
このように、乾元大宝が発行された10世紀には、律令政治は変質し、摂関政治が行われる新たな体制へと変化を遂げる時期だったのです。
だから、乾元大宝が発行されたという具体的な事実を、歴史の大きな変化に位置づけると良いのではないかと思います。
最後に、宋銭については、日本には銅銭をつくる技術があったのに、なぜ大量の宋銭を中国から輸入して、国内でお金として使ったのか?
それを考えると、宋銭が流通していた中世の社会の特徴が見えてくると思います。
素敵な回答ありがとうございます🙇🏻♀️
参考にさせていただきます!
なるほど、人々の間で貨幣があまり使われなかったと聞いたことがありますが、質の悪い貨幣が出回ったことも理由の一つだと納得しました。詳しく丁寧な回答ありがとうございます!