✨ ベストアンサー ✨
ここの辺りは本当に理解が難しいです。私も完全に理解しているとは口が裂けても言えません笑
長くなりますが、まず平安時代末期になると国司職が利権化し、国司は任国に赴任しなくなります。代わりに目代と呼ばれる代理人を派遣し、目代が事実上の国司としてその国の統治・徴税などを行うことになります。ただ、彼ら目代も1人でお仕事は出来ないので、現地の有力者を在庁官人として組織し、国府にてお仕事をするわけです。
じゃあこの現地の有力者って誰?って話ですが、言ってしまえば武士です。武士達は基本先祖は都の中央貴族や皇族ですが、例えば国司として任国に赴任し、任期を終えた後にその土地に住み着いたとか、追捕使や押領使としてやってきて土着したとか、まぁそんな背景から現地にいるような人々です。
例を挙げるなら鎌倉北条氏もこれに当てはまるでしょう。北条氏は伊豆の田舎の土豪に過ぎませんが、彼ら一族もまた伊豆国の国府にて在庁官人を務めていたりします。彼等は在庁官人でありながらも、別の見方をすれば在地の土豪であり、武士でもあり、そして開発領主としての側面も当然持ち合わせています。
さて少し話は遡り、現地に派遣された目代は在庁官人を組織して国司に代わり統治を行うとお話ししましたが、目代と在庁官人は決して仲良くはありません。
何度も例えを出して申し訳ありませんがここで例を出すと、例えば
下総の有力武士に千葉氏という一族がいます。彼らは代々“千葉介”を名乗るほど大きな武士団であり、その中でも千葉常胤やその息子達の“千葉六党”は源頼朝に味方したことでも有名な人物です。
そして千葉一族は常胤の父の代から下総国相馬郡の郡司を務めつつ、郡内にある開拓した所領を伊勢神宮に寄進し、広大な相馬御厨(みくりや・・・神社の荘園の事を歴史用語で御厨と呼ぶ)とし、自身は御厨の下司(荘官とほぼ同義)に収まっていました。ただ常胤の父は常胤が若い頃、相馬郡から上がってくる年貢を規定量納入しなかったとして郡司を免職され、更には目代により逮捕されるという事件が起こります。この件は絹や砂金・馬などの財宝を賄賂として目代に送り、何とか釈放された上で郡司の地位を取り戻すという始末だったほどです。
千葉一族ですらこの有様であり、つまり当時の武士は地位が非常に低いことの裏返しでもあるわけですが、では何故ここまで彼ら武士達は在庁官人や郡司などの職に拘るのか、というと極論土地のためです。
例えば寄進をしても寄進先が没落してしまった場合、自分の土地は瞬く間に別の武士によって奪われてしまう危機がありましたし、逆に在庁官人になることで自身の土地に特権(郡司などは自身の私有地からの税を納めなくて良かったりする)を付与してもらっても、千葉氏の例で挙げたように、目代・国司・知行国主の気分一つでそんな特権は吹けば飛ぶような危うさがあります。
だからこそ彼ら武士(開発領主)は自分の土地を守るため、保険として寄進もしたし、別の顔として在庁官人にもなったのです。
ここからは余談ですが、だからこそ武士達は自身の土地を未来永劫自分のものだと保証してくれる強力な人物又は組織を必要とし、その願いが結実し誕生したのが鎌倉幕府であり、こうした願望の元に結実した幕府だからこそ、奉公に対する御恩として地頭に任命するということがあるのです。
そうです。武士が所有する私有地のことを門田などと言ったりしますが、こうした一所懸命の土地を守るために、武士は命をかけて戦うし、寄進をしたり、郡司になったり、とあれこれ策を弄していたということです。
なるほど!本当にわかりました!ありがとうございました!
ありがとうございます!つまり、自分の管理できる土地を維持したかったから、公領でも私有地でも管理者になりたかったんですね!よく分かりました!平安時代後期、大好きなので、千葉常胤はよく知ってますが、父親のことは知らなかったので、勉強になりました!鎌倉幕府につながる話もとても腑に落ちました!
ご丁寧に解説してくださり、本当にありがとうございます!