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弘安の役後、幕府が非御家人を動員し始めたのは、元寇による御家人の経済的困窮(無恩賞・分割相続で所領減少)と幕府への不満増大を受け、新たな兵力源確保と、御家人への恩賞不足を補うため、御家人以外にも広がる武士階層(非御家人)の動員が必要になったため。

異国警固番役:主に元軍が上陸しそうな西日本の沿岸、特に長門(現在の山口県)などの防衛を担当する役務。

非御家人もこの異国髻固番役として動員され、防衛線の維持に貢献させられました。

幕府は元寇後、財政的・軍事的な負担が増大する中で、御家人だけでなく非御家人をも巻き込む形で、全国的な防衛体制を構築しようとしました🙇

さきち

ありがとうございます🙇🏻🙇🏻‍♂️🙇🏻‍♀️

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解決済みになっていますが一応答えておきます。
鎌倉時代を見るときのひとつの視点に、「公武二元支配」があります。山川の教科書では93ページに書いていますが、鎌倉幕府の支配地域は東国が中心であり、西国も守護が置かれて幕府の影響力はありますが、荘園のなかには地頭が置かれていないところもありますし、その荘園の現地の荘官は鎌倉幕府に属さない武士もいます。ですから、政治面でも経済面でも朝廷と幕府という2つの中心があったのが鎌倉時代でした。
しかし、承久の乱で幕府が勝利したことは幕府の西国への支配を拡大することになります。それでも、北条泰時が制定した御成敗式目は律令法や本所法を否定していないことから、武家の法がおよぶ範囲と朝廷の法のおよぶ範囲が区別されていました。
それが、モンゴル襲来を通じて幕府の支配が九州にもおよぶようになります。また、モンゴル軍の襲来から守るべく御家人を動員するだけでなく、御家人ではない武士を動員する権利も朝廷から獲得して、支配を拡大させることになりました。
このようにして支配の拡大した幕府は、後嵯峨法皇が亡くなり皇統が分裂した朝廷から、皇位の継承や荘園の相続など朝廷の問題の解決を求められるようになります。この頃には朝廷に対して幕府が優位な政治状況になっていたと言えます。
鎌倉幕府を通じて幕府と朝廷の関係がどのように変化していったのかに注目することが鎌倉幕府を理解するひとつのポイントです。

さきち

ありがとうございます🙇🏻🙇🏻‍♂️🙇🏻‍♀️

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