✨ ベストアンサー ✨
彼の在位は10年ちょいですよ?ちゃんと期間を理由に天皇が変わってます。
ま、あくまで北朝の言い分ですので、南朝こそ正当である!という南北朝正閏論争よろしくな過激派ならいざ知らずですが…
失礼しました。一部誤りですね、、、
期間は15,6年ですね。辞めさせられた理由は上に同じですが。
何故なのかというと文保の和談で取り決められた時の複雑化した天皇家の問題が関係しています。
以下家系図
後88
嵯
峨
⇩ーーーーーーーーー⇩
亀90 後89
山 深
⇩ 草
後91 ⇩
宇 伏92
田 見
⇩ーーーーー⇩ ⇩ーーーーー⇩
後96 後94 花95 後93
醍 二 園 伏
醐 条 見
これが当時の天皇家です。
正安三年(1303)後二条天皇が践祚したことで、その皇太子を誰にするか(事実上次の天皇は誰かという話)という問題が起きます。当然両統迭立の原則から言えば持明院統から出すのが普通です。が、後伏見上皇には息子がおらず※、結果的に後伏見上皇の弟富仁親王(のちの花園天皇)が擁立されます。将来、後伏見上皇に子供が生まれた場合、その子供に天皇位を継承させることを約束してですが。
その7年後若くして後二条天皇が崩御し、無事花園天皇が即位するものの、再び皇太子誰にするか問題が噴出します。
ここで皇太子に任命されたのが尊治親王、のちの後醍醐天皇です。正確な理由はわかりませんが、後二条天皇の遺子、邦良親王が病弱だった事も関係している事もあるとかなんとか。
さて花園天皇の在位が約9年ほど経過した時(文保元年)、ここで初めて両統迭立を正式に制度化しようという動きが起き、
・花園天皇が譲位し尊治親王が践祚すること
・今後在位年数を10年とし、両統交代すること
・次の皇太子は邦良親王とし、その次を後伏見上皇一宮量仁親王とすること
の三つが幕府案として示されるのですが、三つ目の内容は大いに問題があり、後醍醐の次が邦良親王だと大覚寺統が二代続けての即位となり持明院統は不満であるし、そもそも
後醍醐系→後二条系
花園系→後伏見系
へと皇統が移る事になり、それ即ち皇統が二つに分裂どころか四つに分裂しかねない※※という問題がありました。
そして1326年(後醍醐在位8年目)後醍醐の皇太子であった邦良親王が亡くなり、事態は加速。今度は両統迭立に基づいて予定を早めて後伏見上皇の皇子量仁親王を即位させろと持明院統が騒ぎ、後醍醐も負けずと邦良の代わりに自身の息子尊良親王を皇太子にと応戦し、その結果持明院統側が勝利、これで不満を持った後醍醐は元弘の変へと突き進むという流れになります。
このゴタゴタの中、後醍醐は譲位の要請を拒否し続けたそうです。武的背景を元に後醍醐を退位に追い込めなかったのかという話ですが、幕府としても、天皇がどちらの統だなんだというのは正直言って面倒くさい話でしたし、何より承久の乱で三上皇を配流したことがトラウマだったとか、そもそも当時の幕府には政権担当能力のある人間が少なかったとか、津軽大乱に気を取られていたとか色々言われています。
ですから1328年〜1331年の元弘の変までの3年間譲位せずに粘れたのは幕府側の事情と後醍醐側の政治的努力の双方の結実の結果と言えます。流石に武力蜂起されたら鎮圧するしかないので最終的には退位させられましたけどね。
長くなって本題から逸れまくってますが、要は後醍醐君は繋ぎの要因として天皇になったのに、天皇の位が惜しくなり、ゴネまくった結果時代が味方をしたという事ですね。
最後に上記の誤りについて再度謝罪します。
※当然である。何故なら当時後伏見上皇は僅か14歳なのである。
※※実際、後宇多の死後後ろ盾をなくした(邦良を皇太子にしたのは生前大覚寺統の治天の君であった後宇多である)邦良は後醍醐に譲位をさせるように幕府へかなり働きかけをしていたという。
花園上皇が残した日記には後醍醐側と邦良側が競い合うように鎌倉へ使者を送った様子を「世に競馬(きそいうま)と号す」と書き記した程である。
当然その動きに乗じて持明院統側もかなり幕府へと働きかけたようである。
ありがとうございます🙇🏻🙇🏻♂️🙇🏻♀️
よく分かりました!本当に、いつもご丁寧に解説してくださり、感謝してもしきれません🙏
ありがとうございます!そうなんですね!
参考書がずっーと後醍醐天皇表記で書いてあったので、あれは上皇なのでしょうか?元弘の変で光厳天皇が即位したと思うのですが、なぜ10年ぴったりで交代しなかったのでしょうか?