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観応の擾乱は確かに守護勢力の伸長を促した事は間違いない(半済令など)ですが、将軍権力も二つに分かれていたものが一つに合わさり、勢いが落ちるとは言い難いですね、、、
すみません 義光→義満 です
観応の擾乱が一応収まった後も世間は未だ反乱が起こりまくっているのです。義満が生まれたのは延文三年(1358)の事ですが、3歳の時には仁木氏の反乱、4歳の時には細川清氏が離反、それに伴う南朝勢力の京都襲来により、義満は京都を密かに離れ、播磨赤松氏の城に匿われる始末です。当然父義詮も京都を脱出したり奪還したりと政局は混迷を極めていたのですが、この翌年から義満将軍就任までようやく(畿内限定だが)戦乱が少し落ち着きを見せるのです。
そして彼が将軍になった時は細川頼之という人物が実権を握っていて政治を行えないのですが、義満の成人に伴い、政務を義満が見るようになります。応安五年(1372)義満15歳のことです。
彼はまず自身の直轄軍(奉公衆)の強化を図ったとされます。尊氏義詮時代に奉公衆がどの程度の規模だったのかは分からないのでなんとも言えませんが、明徳二年(1391)年の明徳の乱では「御馬廻」即ち奉公衆三千騎が活躍したと言います。これが事実なら奉公衆はかなりの数増員されており、直轄軍の強化を図ったと考えられます。
それから何故このタイミングなのかということですが、義満が生まれた時は既に守護の領国というものがある程度確定している段階です。尊氏以来の元老とも言うべき老臣たちが守護家をガッチリとホールドしている状態です。しかし義満が成人後彼らは寿命によりこの世をさることになります。これを好機として家督争いに介入し、守護権力の削減政策を実行していくことになるのです。
例えば土岐氏。嘉慶元年(1387)美濃・尾張・伊勢の三カ国守護であった土岐頼康が70歳で没し、頼康の弟の子康行を養子として家督を相続させる事になるのですが、康行の実の弟、満貞が土岐氏惣領の地位に付くという野心を抱き『明徳記』、義満はその心を巧みに利用して満貞と領国を分ける事を命じ、案の定怒り狂った康行が満貞に対して挙兵、これを討伐するという形で土岐氏の弱体化に成功しています。
明徳の乱も康応元年に山名氏の嫡流山名時義が没したことが契機です。
返信遅れて、すみません!とてもよくわかりました!
ご丁寧な解説、本当にありがとうございます!
ありがとうございます!なぜ当時は守護の権力を削がず、義光がこのタイミングでやったのでしょうか?