学年

教科

質問の種類

現代文 高校生

この文章に出てくる「筆者」というのが誰か分かりません…この文章を書いている杉田敦が自分のことを自ら筆者と名乗っているのでしょうか?

45 伝えるという意味では一種の代表機能を果たすと考えている。選挙や無作為(チュウシュツの世 5 論調査と異なり、デモなどは、一部の人びとが勝手に参加するものなので、全体の世論分布を反 映せず、したがって「代表性」がないという議論も根強いが、それなら、なぜ多くの国々で、街 頭デモによって政権が(選挙を通じてつくられた政権でさえも)倒れるのか。多数の人びとが参 加するデモが、民意を示す一つの重要な手段であることは、国際的に確立されている。 こうした筆者の議論に対して、代表制をそのように多元化すれば、政治の「スピード感」が失 われ、結果的には決定が遅延し、政治そのもののパフォーマンスが低下するという批判が寄せら、 れるかもしれない。図分功一郎と村上稔の討論「変革の可能性としての市民政治」で、国分は次 のように指摘している。「住民運動に反対する人は、日本は『間接民主主義』や「議会制民主主義」 というかたちで民意をくみとっているのだから、それ以外の手段を出してくるのはおかしいと言 さらに筆者は、制度化されていない、たとえば街頭でのデモのようなものも、人びとの意思を うんですね。驚くべきことに、学者でもそういうことを言う人がいます。 筆者自身は、経済や環境をめぐるグローバル化が大きな影響をもつ今日、決断主義的な政治の 枠組みをつくり出そうとしても、現状に合わず、事態の改善につながらないと考えている。それ よりは、右にもふれたように、より多元的なチャンネルを用意する方が、まだしも可能性がある と思う。その意味で、筆者:1鈴木の間題意識に共感するところが大きい。 ただし、何か良い枠組みをつくり出せば、万事うまく行くという見通しについては、筆者は 0 、かなり懐疑的である。実は制度改革論という点で、鈴木の考え方と政治改革論との間には、 一定の類似性が感じられる。むしろ筆者は、どんな制度によっても民意が完全には汲み尽くせな

未解決 回答数: 1
日本史 高校生

どうして黒田清隆首相は藩閥政府を推す発言をしたのですか?彼自身が藩出身だからですか?? どなたか優しい方教えてください🙏🏻

1帝国議会のようす 1893年に出版された錦絵。壇上の中央に立っている発議者の発言を,絵中央の机の速記者が記録しているよう すを描いている。発議者のうしろには、議長·書記官を中心に諸大臣がならんでいる。 4 初期議会と条約改正 議会制度の整備や条約 改正の成功を,当時の世 界情勢を背景に,考察し てみよう。 1889(明治22)年2月11日,憲法発布と同 初期議会 時に衆議院議員選挙法が公布され,選挙権と被 選挙権が規定された。翌日,黒田清隆首相は超然主義演説をおこない。 >1 くろだきよたか ちょうぜんしゅ ぎ 内閣総理大臣の変遷 1840~1900 年 総理大臣 出身·政党 5 総選挙で多くの議席を占めるとみられていた政党の意向に関係なく, 1885 伊藤博文O 長州 はんばつ 藩閥政府は政策を実現すべきだと主張した。 1888 黒田清隆 薩摩 1889 山県有朋0 長州·陸軍 1890年,最初の衆議院議員総選挙がおこなわれると,民党(立憲 1891 松方正義①薩摩 かくとく 自由党·立憲改進党などの反政府派の政党)が過半数を獲得した。第 1892 伊藤博文2 長州 やまがたあり 1回帝国議会(第1議会)では,超然主義を掲げる藩閥政府の山県有 かか >1 選挙権は満25歳以上 の男性で、直接国税15円以 上の納入者とされ,全人口 (3900万人)の1.1%に過ぎ なかった。被選挙権は満30 歳以上の男性で,納税資格は 選挙人と同様だった。 >2 日本海軍が大型軍艦 とも さくげん 10 崩内閣に対し,衆議院の民党議員は政費節減(行政費の削減),民力 ちそ 休養(地租軽減)を理由に,次年度の予算案の削減を主張した。山県 内閣は自由党の一部の議員を買収し,ようやく予算案を成立させた。 まつかたまさよし 翌年の第2議会でも,松方正義内閣と民党が予算案をめぐって対立し, 松方は衆議院を解散した。 の建造を急いだのは,清国の りとう たいこう 1892年におこなわれた第2回総選挙では,松方内閣は吏党などの 海軍力に対抗するためだった。 15 かんしょう 『2最初の総選挙のようす 記 名投票で役人の目の前に投票箱 があった。(ビゴー筆) 政府支持派の当選をめざし,はげしい選挙干渉をおこなったが,民 いとうひろぶみ 党の優勢をくずすことはできなかった。松方にかわって,伊藤博文 いしん かくりょう げんくん が明治維新以来の実力者を閣僚にすえ,いわゆる元勲内閣(第2次 ぐんかん >2 伊藤内閣)を組織したが,軍艦建造費をめぐって民党議員と対立し しょうちょく 20 た。このとき, 衆議院議員に政府への協力を求める詔勅が出され、 自由党の協力もあって軍艦建造費はようやく衆議院で可決された。 このように,衆議院における藩閥政府と民党との対立は,第1議会 ぼっぱつ から日清戦争勃発直前の1894年の第6議会(初期議会)まで続いた。 69

解決済み 回答数: 1