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現代文 高校生

国語の評論文の要約についてです。 先輩に要約は絶対にできるようになった方がいい、役立つと教わったので力を入れるようにしました。添削やコツを教えて頂きたいです。

なった。 アジア再発見の時代 □ 日本が中韓ひいてはアジアの国々とどう向かい合い、関わっていくかが現在、大きなキロにあるのは言う までもない。ここではこうしたテーマを、時事的な話題に即してというよりは、少し長期の視点から、また 私自身の個人的な経験も踏まえる形で考えてみたい。 2 福沢諭吉の脱亜入欧〟論をまつまでもなく、明治期以降の日本にとって、その目指すべきモデルは「欧 米」であり、中韓を含むアジアは遅れた”、そしてそこから抜け出ていくべきネガティブな存在として規 定された。言い換えれば“欧米日本中国・アジア”という明確な「序列」 意識や価値観がまずここで形 成されたのである。 これは日本にとっては若干の複雑な心理を伴うものであって、なぜなら江戸期までの日本人ないし日本社 会にとって、教養や学問の規範であったのは何より中国の古典や思想等々だったからである。私は明治期日 本のこうした過程を「文明の乗り換え」と呼んでいる。 *2 その後の日本は戦時体制期には鬼畜米英〟などといった標語もトナえられたが、敗戦とともにそれもま 180度転換し、戦後はとりわけ米国をあらゆる面でのモデルとして進んでいった。こうして見ると、明 治維新以降の日本の歴史とは、どの国や社会をモデルないし準拠とし、また自らのアイデンティティー、ま たは、よりどころをどこに置くかという点に関する「転変」の歴史だったとも言えるだろう。 3 ここで多少の個人的な経験にふれさせていただければ、高度成長期の中期に生まれ育った私にとって、さ しあたり豊か〟で進んだ国とは米国や欧州諸国であり、1980年代の末に米国の大学院で2年を過 ごした際も(米国が決してモデルとなるような社会でないことはそこで十分認識するようになったが) 中韓 やアジアにはほとんど関心が向いていなかった。 しかし2000年代に入る頃から、勤務先の大学に中国からの多くの留学生が来るようになり、彼らと話 す中で、私自身の中国やアジアに対する見方に相当な先入見や固定観念があることに気づかされるように 20 たとえばある女子の留学生は「男女平等という点では日本より中国のほうがずっと良かった」と言う。こ 容が多かったのである。 れは私にとっては意外な指摘で、さらに話を聞くと、男女の家事分担が日本よりも中国のほうが柔軟である とか、公の場で女性が明確に意見を言うことについて日本社会は否定的な面があるとか、考えさせられる内 2 また、たとえば1年に中国の大学での講義に行った際、当時は日中関係が大きな冷え込みを迎えていた時 期だったので、日本の知人から中国では十分気をつけたほうがよいということを再三、言われて現地にオモ ふいたのだが、当地での学生の反応は非常に活発かつフレンドリーで、日本のメディアでの中国報道(ある は中国人の日本観に関する報道がそれ自体、相当なバイアスを含むことを認識したのである。 13 集団内で一つの論や“空気”に同調する傾向が強いと思われる。 回 私自身のソッチョクな認識としては、中国社会はきわめて多様ないし多元的であり、日本のほうがむしろ 3 44 回 中韓やアジアについて語るべき点はなお多い。先ほど明治期以降の日本は、準拠とする国や自らの立ち位 について転を繰り返してきたと述べたが、ポスト成長ないし人口減少社会を迎える今という時代は、日 中国やアジアについての 関係から考え直し、その再定義ないし再編を行っていく時期で もあるのではないか。 そのためにも、まずは自らの先入見や固定観念をいったん括弧に入れ、相手の国や社会や人を知っていく ことが重要であり、それはむしろスリリングな発見とびを伴うプロセスであると思えるのである。 注 *1 福沢諭吉一八三五~一九〇一蘭学者、思想家、教育者。 アジア再発見の時代 *2 鬼畜米英 *3 バイアス ゆがみ、へだたり。 太平洋戦争中に厳国であるアメリカ、イギリスを蔑視して呼んだ標語 4 ポスト ・・・高度成長期の後「ポストー」は「―の後」の意。 To 35 B

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日本史 高校生

これだと蘇我氏が権力握った時期と書いているのに、聖徳太子が豪族を下にしたりとかしてるし、蘇我氏も豪族じゃないですか、、、蘇我氏聖徳太子より下じゃん、 権力握ってなくないですか?

第3章 蘇我氏の台頭と滅亡 第2部 蘇我氏の盛衰 7世紀 前半① 推古天皇 初の女性天皇 P.063表2-A 東進金谷本 9 厩戸王 冠位十二階 制定 (603) さあ、これから第2期に入ります。 第2期は、一言で表すと「蘇我 氏が政権を独占した時期」です。 第2期の最初の天皇は推古天皇 * です。 592年に即位します。 推 憲法十七条 古天皇は女性の天皇ということで、593年から甥にあたる厩戸 制定 (604) しょうとくたいし (聖徳太子)に政務を代行させたといわれています。つまり、推古天 小野妹子ら皇の時代は、厩戸王と、権力者である蘇我馬子による二人三脚の政 製 朝鮮 厩戸王の政治は、内政と外交という2つの側面から見ていくと良 に派遣 (607) 治であったと考えられています。 高向玄理ら 隋に派遣 (608) いです。 隋滅亡、 唐建国 (618) していくことにな かん いじゅうにかい けんぼうじゅうしちじょう まず、内政から。 内政は2つ、 冠位十二階と憲法十七条です。 冠位十二階によって、今まで一族単位で与えていた冠位 (身分) を、位として個人単位で与えるようにし、昇進も可能としました。 603年のことです。 また、翌604年には憲法十七条を出して、 豪族に対して役人とし ての自覚を求めます。「豪族は役人なのだから、天皇の言うことを 聞かなければいけない」と教えるわけです。 また、仏教を新しい政 治理念としました。 このように、豪族がヤマト政権に完全に服属していく体制をつく り上げていこうとしたのです。 ゆらのみや 推古天皇 日本最初の女帝。 欽明天皇の娘で母は蘇我稲目の娘。 敏達天皇の皇后となる。 崇峻天皇が暗殺さ れると、その年の末に即位。 はじめ飛鳥の豊浦宮におり、後に小墾田宮に移った。 628年に後継者を明確に 定めることなく世を去った。 おはだのみや 掘り! ■冠位十二階 603年に制 信・ ・義・智と 赤・黄・白・ ました。 皇室 存在だったの 下っ 智 ■憲法十七 604年に を示したも うことを重 次に外交 この遺隋 それは、「中 従来のよ 拡大してい ないで、 えるでしょ その後、 して、1世紀 とってかわられ 深掘り! 072

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日本史 高校生

もうすでに任那は磐井の乱の前に百済にあげちゃってるのに 磐井の乱で新羅が任那取ろうとしてて、日本も奪われたくない(自らの影響力がなくなってしまう)と書いてますが、日本は大伴があげちゃってるので奪われたくないとかなくないですか?

第3章 / 第1部 6世紀の政治 3 蘇我氏の台頭と滅亡 6世紀前期 のか?」ということですね。さっそく、そこからお話ししていきま |継体天皇 す。 大伴金村 加耶四県 百済 (512) 継体天皇と大伴氏 磐井の乱 (527) P.062表 1-A 東進金谷本 9 けいたい えちぜん 6世紀前期の主な天皇は、継体天皇です。 しかし、継体天皇は、自 分がまさか天皇になれるなんて思ってもいませんでした。 継体天皇 の実像は謎に包まれていますが、一説には天皇になる前は越前(福 井県)に住んでいたといわれています。天皇の親戚ではありました が、非常に遠い親戚だったため、天皇候補とはまったく無縁の生活 をしていたようです。 しかし6世紀初頭に、 武烈天皇が亡く なります。 武烈天皇には後継者がいませ んでした。 このままでは、 天皇家は断 絶、つまり終わってしまうかもしれない という危機に直面します。 その時、 大伴 かなむら 村 金村* が越前から後の継体天皇を連れて きて、 天皇の地位につけたのです。 ド うむ。 継体天皇にとっては、大伴金村のおかげで天皇になれたわけで す。 ですから当然、 大伴金村を大事にします。 天皇家としても、天 皇家が断絶してしまうかもしれない危機が救われたわけですから、 大伴金村を大事にしないわけにはいきません。その結果、大伴金村 は絶大な権力を握ることになったのです。 大伴金村が絶大な権力の持ち主だったことを象徴する事件。 それ かや よんけん くだらかつじょう が、12年の加耶四県の百済割譲です。 朝鮮半島南部の加耶が日本 と密接な関係にあったのは、 第2章でやりましたね。 あ、ちなみに ごうぞく *大伴金村:5世紀末~6世紀前半ごろのヤマト政権の豪族。 「日本書紀」によると、武烈・ 継体・安閑 おおむらじ きんめい。 欽明各天皇の大連を務めた。 欽明朝に入ると蘇我氏の台頭などのために勢力を失 深掘 にほんしょき 『日本書紀』 では加耶諸国を総称して「任那」 って呼んでいました。 でも、今 「は「任那」といえば加耶の南部にあった国を指すことが多いです。ややこ しいですね。いずれにせよ、加耶は日本の影響力が大きく及んでいた地域 そんな日本が影響力を持っていた加耶南部 の地域を、朝鮮半島の百済にあげてしまった のです。これは、大伴金村の指示でおこなわ れたといわれています。 自分の意思で他国に 自国の勢力圏を譲ってしまうほどに、 大伴金 村の権力は強かったわけです。 ここには大き な賄賂が働いたともいわれています。 でした。 でも、そんな勝手なことをしていたら、ほかの豪族だって黙って見過ご すわけにはいきませんよね。 大伴金村は、540年にこの加耶四県割譲は失 おこし 「政だと物部尾輿らに批判されて失脚してしまいます。 なぜ、絶大な権力を 誇っていた大伴氏が、物部氏に批判されて失脚してしまったのか? それ は、とある事件が関係しています。 いわい 大伴氏の権力がかげりを見せることになった事件が、 527年の磐井の乱 * つくしのくにのみやつこ しらぎ です。 磐井は筑紫国造、 つまり九州の大豪族でした。 しかし、この磐井、 ヤマト政権に不満を持っていました。 九州の大豪族である自分が、 ヤマト 政権なんかに服属することは、面白くなかったわけです。 その磐井に目を つけたのが、朝鮮半島の新羅という国です。 新羅は、磐井に対して 「ヤマ ト政権に反乱をおこそうよ。 新羅も味方するから」 と磐井をそそのかすわ けです。それでは、 なぜ、新羅はこのように磐井をそそのかしたのでしょ うか? * 磐井の乱: 527年に近江毛野が6万の軍を率い、 加耶におもむき新羅に破られた南加羅・喙己呑を復興しようと 磐井が、新羅の賄賂を受け火・豊2国に勢力を張って毛野の軍を遮断したためおこった。物

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