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数学 高校生

数3極限の問題で質問です。(3)の始めの式変形(大きな青丸)のところからわからないので教えてください。あと,式変形の式の青で囲ったところの符号が<ではなく<=となる理由もわからないので教えてください。(符号のところに関して調べたらn=1のときが…と書いてあったのですがよくわ... 続きを読む

525 うちの原理 数列{an)が0<a<3, an+1=1+√1+an (n=1, 2, 3 ......) を満たすとき 00000 (1)0<a<3を証明せよ。 (3) 数列{a} の極限値を求めよ。 3 (2)3-an+1<1/12 (3-4)を証明せよ。 [類 神戸大 ] p.34 基本事項 3. 基本 21 2 2章 ③数列の極限 指針 (1) すべての自然数nについての成立を示す数学的帰納法 の利用。 (2) (1) の結果,すなわち > 03-4>0であることを利用。 (3) 漸化式を変形して,一般項 αn をnの式で表すのは難しい。 そこで,(2)で示した 不等式を利用し, はさみうちの原理を使って数列 (3-αn) の極限を求める はさみうちの原理 すべてのnについて p. San Sgn のとき lipn=lign=α ならば liman =α F18 なお, p.5455 の補足事項も参照。 CHART 求めにくい極限 不等式利用ではさみうち (1) 0<an<3 · ① とする。 [1] n=1のとき, 与えられた条件から①は成り立つ。 [2] n=kのとき,①が成り立つと仮定すると 0<ak<3 n=k+1のときを考えると,0<ak <3であるから ak+1=1+√1+ak>2>0 ak+=1+1+a <1+V1+3=3 したがって 0<ak+1 <3 よって, n=k+1のときにも ①は成り立つ。 [1], [2] から, すべての自然数nについて ① は成り立つ。 = 3-an < La 2+ √1+an (3-an) (2)3-αn+1=2-√1+an (3)(1),(2)からn≧2のとき n-l 0<3-a) (3a) lim(1/2) (3-a) =0であるから lim(3-an)=0 したがって liman=3 h-1 数学的帰納法による。 40<a<3 40<ax 5 √1+an >1 <a<3から1+an <2 <3-a>0であり,an>0 から 2+√1+an>3 mm2のとき、(2)から 3-an< (3-an-1) <(1/2) (3 3-an- なぜ有理化するのか…<(1) (3-0) 3-an pre 作りたいから 解答 2

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日本史 高校生

解説お願いしたいです🙇‍♀️

下線部(コ)に関連して、グループでは藤原氏が握っていた受領の人事権について調査 次の資料(1)~(4)を得た。 これらの資料を参考に、受領の人事について三条天皇はど のような権限を有していたと考えられるか。 解答欄の書き出しに続けて,藤原道長との 人間関係にふれながら, 簡潔に説明せよ。 [なりと せいし (1) 藤原済時の娘娍子は皇太子時代の三条天皇に嫁ぎ、のち四男二女をもうけた。 $795 1011 年に一条天皇が譲位して三条天皇が即位した際、天皇の父母も藤原済時もすで に他界していた。 左大臣の藤原道長は一条天皇と彰子の間に生まれた子の成親王を 皇太子とした。のちに三条天皇が眼病を患うと,それを理由に道長は天皇にしきりに 譲位をせまった。 (2) 三条天皇が娍子を皇后に立てる儀式を行った際、道長は同日に娘の妍子を三条天皇 の中宮として入内する儀式を東三条殿で行った。ほとんどの公卿は東三条殿へ行った が、藤原実資,藤原隆家ら四名の公卿のみ娍子の儀式に参列した。 じゅう (3) 藤原済時の子で娍子の兄の藤原為任は伊予守となった。 当時, 伊予国は富裕な国と 考えられ、伊予守になることは容易ではなかった。 為任はかつて道長を呪詛しようと したと噂された人物であった。 (4) 次の表は三条天皇が即位した後に天皇の側近として蔵人になり、のちに受領となっ た人物をまとめたものである。当時は藏人を経て受領に任官するまで10年前後の年 数を要することが一般的で, 長い場合は20年以上かかったものもいた

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古文 高校生

平家物語ですが何が恐ろしかったのですか?

32! 河合塾マナビス 〔解答〕 問問 問一 2 問二 問三 4 問四 3 問五 a1 〔解釈例〕 古文(レベル3・4) 前半 第九講解答・解釈例 A 何とあきれたことだ。人がおおぜいお聞きしてしまい ました B あれはどうしたことだ 問六 おそろしかり C たいそうお笑いになられて D まったく何も申し上げることができない b5 問七平家を滅ぼす企みに加担した者。 東山の麓、鹿の谷という所は、後ろは三井寺につながって、並々な らぬ要害の地であった。(そこに)俊寛僧都の山荘がある。(一党は) そこにいつも寄り合っては、平家を滅ぼすための計略をめぐらした。 ある時後白河法皇もお越しになる。今は亡き少納言入道信西の子息、 静憲法印がお供する。 その夜の酒宴の席で、(法皇が)このことを静 憲法印に下問なさったところ、「何とあきれたことだ。人がおおぜい お聞きしてしまいました。 すぐに漏れ広まって、きっと天下の一大事 にいたるでしょう」と、(静憲法印が)あわてふためいて申し上げた ので、新大納言は顔色を変えて、さっと席をお立ちになったが、お席 の前にございました瓶子を、狩衣の袖にかけて、引き倒してしまわれ ると、法皇が、「あれはどうしたことだ」とおっしゃったので、 新大 納言は(もとの席に立ち戻って、「平氏(=瓶子)が倒れてしまい ました」と申し上げなさった。 法皇はたいそうお笑いになられて、 「者どもここに参って猿楽 (滑稽な即興の芸)をいたせ」とおっしゃ ったので、まず、) 平判官康頼が、参って、 「ああ、あまりにも平氏 (=瓶子)が多うございますので、すっかり酔ってございます」と申 し述べる。(ついで、) 俊寛僧都が、「ではそれをどのようにいたそう」 と申されたので、しまいに、) 西光法師が、「首を取るのに越したこ とはあるまい」と申して、それぞれ) 瓶子の首を取って(奥に) 入 ってしまった。静憲法印はあまりの事の意外さに、まったく何も申し 上げることができない。実に実に恐ろしかった(この夜の出来事で ある。平家討伐の陰謀に加担した者は一体誰か。近江中将入道蓮 浄俗名成正、法勝寺執行俊寛僧都、山城守基兼、 式部大輔雅綱 平判 官康頼、宗判官信房、新平判官資行、摂津国源氏多田蔵人行綱をはじ めとして、北面の武士(=上皇の御所を警護する武士) 達が大勢加担 したのだった。 無断転載禁止譲渡禁止

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