古文 高校生 4ヶ月前 古文の読解について質問があります。 古文単語や古典文法はある程度覚えてきたのですが、それを実際の問題の中でどう使って解いていけばいいのかが分かりません。本文を読むときに、品詞分解や文法知識をどのように使って意味を取っていくのか教えていただきたいです。 また、2枚目の(ア)... 続きを読む あぶつあずまくだ 第4問 次の文章は、「阿仏東下り」という物語の一節である。阿仏は、亡き夫が遺した荘園を巡る訴訟のため、都に息子たち を残して鎌倉に下ることにした。本文は、富士山の麓あたりまで旅を続けて来た阿仏が体調を崩し、宿を借りたところから始ま 4の番号を付してある。(配点 45 ) る。これを読んで、後の問い(問1~4)に答えよ。 なお、設問の都合で本文の段落に ここち 1 これより風邪の心地とて、いたはりへるほどに、力なく宿を求めて、疲れをしばらくいたはり侍りけり (注1) あるじ 主言ひけるは、 (注2) 。 「やむごとなき御身として、折ふし三冬の半ばに、はるばるの御歩行なれば、疲れにこそおはしますらめ」と、十日ばかり いたはりりて、「これよりも鎌倉へは、何方へか御こころざしあるらむ。送り奉らむ」と聞こゆるほどに、こよなくうれしく (注3) こし 「比企谷といふ所に親しき人のありければ、この所へ送りてむ」 とあるほどに、主、輿を用意して乗せ奉り、ほどなく鎌 倉にては、比企の谷といふ所にぞ届け侍りけり。縁の人なりければ、はるばる下り給へるこころざしを、「いかばかり」とあは れみて、よくよくいたはり参らせけるほどに、旅の疲れなれば、ほどなくもとの心地し給ひけり。 (注4) くじ 2 さて、ここにしばらくおはして、鎌倉の公事ども聞き給ふに、まことに世の政事つかさどり給ふとて、天が下の人々、高 (注6) miin (注5) もしも集まりて、門の門に市をなせり。ここに執政の縁につきて、よきったよりありければ、ひそかにことの様を 言ひ入れければ、よにあはれにとぶらひて、「気色をうかがひて沙汰にあづかり給へ」と言ふも頼もしく、力づきてぞ見給ひ (注7) にける。 dくないん はつこのきば 3 さるに心許して 光陰送り給へるほどに、その年もはやうち暮れて、あらたまの春にもなりゆけば、東風吹く風もやはら (注8) かけひ つらら かに、のどけき空に鶯の、うら若き初声を軒端の梅におとづれて、枝をつたふもとやさし。懸樋の氷柱解けぬれば、ゆ 水の音ものどくて、ぶもやすき心地せり。 人ごころ懸樋の水にあるならば世はすぐさまにことや通らむ 4 かかるほどに、君の北の方、聞こし召して、「あなあはれや。子を思ふ道には身の苦しびをも顧みず、はるばると東の奥に (注10) しうしや (主) 下り給ふことのはかなさよ。 このみなし子の父は、世に名を留めし和歌の秀者にて、帝の御宝と聞こえし。 かかる人のあとな れば、いかでか遺跡を絶えし果てむとは思し捨つべき。かひがひしくも、足弱の身として東の旅におもむき給ふことこそ 便にはおぼゆれ」とて、さまざまの物ども贈らせ給ひて、つねにとぶらはせ給ふぞありがたき。 (注) 1主宿の主人。 7 2 三冬の半ば旧暦の十一月。 3 比企の谷 鎌倉の地名。 鎌倉の公事ども鎌倉幕府の訴訟に関すること。 5 権門の門 鎌倉幕府の有力な役人の家の門前。 6 執政の縁につきて鎌倉幕府の権力者の縁者に関して。 沙汰ここでは、裁判の意。ニ 8懸 水を引くために竹や木を掛け渡して作った。 9 君鎌倉幕府の将軍。 10 このみなし子の父 「みなし子」は、 ここでは、父親を失った子の意で、阿仏の産んだ息子たちを指す。 「父」は、亡き夫の藤原為 せんじゃ 11 遺跡 ここでは、歌道の家の伝統の意。 家のこと。 為家の父定家は「新古今和歌集」の撰者、祖父俊成は『千載和歌集』の撰者で、為家自身も勅撰和歌集の撰者となっていた。 回答募集中 回答数: 0
漢文 高校生 5ヶ月前 写真に書いてます 入る語の名 (私(=荘園)は鮒のいひし 明日 H 一の千の金さらに益なしとぞいひける。 Ⅱ後 は、生くべからず。 A Ⅰ 今日前 Ⅰ 今日 ウ Ⅱ前 Ⅰ 明日 Ⅱ 今日 オ Ⅰ 昨日 Ⅱ 今日 カ Ⅰ 昨日 Ⅱ 明日 子 2荘 書き下し文・口語訳 家の説く人為的な道名 のままに育てる [Ⅰ] と一体となって、 I に生きることを理想とする。 トシテ シテ 鮒魚念然色 ふぎよふんぜん (順接 ラン 水面迎子、可乎。」 子を迎へん、可ならんか」と。 せきとめて勢いを増させて押し流して あなたを迎えよう、それでよいか」と 魚然として色を作して曰はく、「君は すると)がむっと顔色を変えて言うことには、「私は シテ キン セル ~ 『吾 きのふルトキ ニシテ 荘周忿 作色 「周作来 有中道 うきのふきた ちゅうだう わ じゅうようしな われるところな として色を作して曰はく、「周昨来るとき、中道にして がっと色 とは、「私が昨日ここへ来るとき、道の途中で こっちしないの 魚 5我目~回 失我常与、我無所処。吾得三斗升之水然活 斗の水を得れば然して活きん 我が常与を失ひ、我処る所無し。 今なく はならない水を失っている場所がありません。 私はただわずかな水さえ得られたら生きられる 場所 〈順接> プ レバしや てつ ぎょ 〈強意 ヒテニ ク メンニハ 而呼者。周顧視、車轍中有三鮒魚爲周問之~ 耳。君乃 曽不如早 しうこ し 我於枯魚之 しやてつもゆう ふぎよあ 呼ぶ有り。 周顧視すれば、車轍中に鮒魚有り。 しうこれと きみすなはこれ すなは はや われこぎよ 周之に問ひて 私を呼び止める者がいた。私がふり向いて見ると、車輪が過ぎた後のくぼみにがいた。 私がこれにたずねて <疑問> <ヘテ ハク 「 しニ 肆。』」 曽ち早く我を枯魚の肆に索めんには のみ。君乃ち此を言ふ。 のです。しかしあなたはこのように言う。いっそさっさと (干物になった) 私を乾物屋で探し求める方が 如かず』と。」 「よいでしょう」と。」 魚は 日、「鮮魚来、子何為者邪」対日、『我東海 曰はく、「魚来れ、子は何為る者ぞや」と。 対べて曰はく、「我は東海 答えて言うことには、「私は東海 言うことには、「あなたは何者か」と <推測 語句解説 <順接> カサン 之波臣也。君豈有斗升之水面活我哉 読 ぜん きみあ としよう みづ の波臣なり。 君豈に斗升の水有りて我を活かさんか」と。 〈形容の言葉・様子や 状態を表す 海神の家来です。あなたは(もしかして) わずかな水 っていて私を生かしてく のではないだろうか」と。 〈再読文字》 ハク カタ 意 よろしい 〈承知した意 激西江之 ごまつわう あそ 周曰はく、「諾。 我且に南のかた呉越の王に遊ばんとす。 西江の水を激して 私が言うことには、 「よろしいとも。 私はこれから南方の具と越の王のところに遊説に) 行くつもりだ。 蜀江の川の流れ シテ 周日、『諾。我且三南遊呉越之王。 せいかう みづげき だく われまさ みなみ 00 索 読だく 味のあいさつ すなはチ 意 しかし もとム 探し求める 出典作者紹介 てっぷ 全三十三編。内編七外編十五・ 雑編十一より成るが、内編だけが 周の自著と推定される。荘周は戦国 時代・宋の思想家。 老子とともに道 家に分類される(老荘思想)。 本文は、 故事成語 「轍鮒の急 (差 し迫った苦しみや困窮のたとえ)」 の典拠であり、わが国でも「宇治拾 遺物語」が「後の千金の事」として 紹介している(問五)。 『荘子」には 他にも、蝸牛角上の争い・胡蝶の かぎゅうかくじょう (こちょう aは「顔色・顔の表情」の意で用いられているので、答えはイ 「気色ばむ」などと使う。その他は、 は「千の金」つまり大金が「まったく無駄である一 (食料)」が「水一切 ぐうわ 夢など動物を使った寓話がいくつも ある。 疑問② 88 80 解決済み 回答数: 1
日本史 高校生 7ヶ月前 惣村について。南北朝期に惣村が発展したのは、武士たちが混乱のさなかにあったからですか?また、その後、守護が力を伸ばすと思いますが、その影響は惣村にはなかったのですか 解決済み 回答数: 1
日本史 高校生 8ヶ月前 後醍醐天皇の記録所の役割は、荘園整理令の時に出てきた記録所と同じ役割ですか。また、こちらは、なぜ記録荘園券契所という名前ではなく、省略の方で習うのですか? 解決済み 回答数: 1
日本史 高校生 8ヶ月前 後醍醐天皇が記録所を再興したそうですが、最初にできてから、いつ、どうして無くなってしまったのですか?また、なぜ後醍醐天皇はこのタイミングで再興したんですか 解決済み 回答数: 1
日本史 高校生 8ヶ月前 なぜ貨幣経済の進展が武士の困窮の一因なんですか 蒙古襲来の前後から分割相続による所領の細分化, 貨幣経済の 進展,蒙古襲来の負担などが原因で窮乏し,所領を手放す御家人 家が現れた。幕府は軍役・番役などの御家人役を負担する御家人を 救済するため, 1297年, 所領の返却を命じる 18 |を発した が,十分な効果はあがらなかった。こうしたなかで,荘園領主や 幕府に反抗する武士である | 19の動きが各地に広がった。 しょう ▲フビライ=ハン 解決済み 回答数: 1
日本史 高校生 8ヶ月前 なぜ、鎌倉幕府も現地に根付いた地頭の動きを止めることが難しかったのですか 所領支配を拡大しようとする武士たちは、 しょう 非 武士の土地支配 蘭・公領の領主や、近隣の武士とのあいだで の徴収や境界の問題をめぐって紛争をおこすことが多かった。 さいごく きない れ、東国出身の武士が各地に新たな所領をもつようになって、 現地の とくに“承久の乱後には、畿内・西国地方にも多くの地頭が任命さ 支配権をめぐる紛争はますます拡大した。 幕府が公正な裁判制度の姉 立につとめたのは、こうした状況に対応するためであった。 . 地頭の支配権拡大の動きに直面した荘園公領の領主たちも、幕府 に訴えて地頭の年貢未納などの動きをお さえようとした。 しかし、 現地に根をお ろした地頭の行動をおさえることは難し く、領主たちは紛争解決のために、やむ を得ず荘園現地の管理いっさいを地頭に 任せて、一定の年貢納入だけを請け負わ うけしょ せる地頭請所の契約を結んだり、現地を せっぱん 地頭と折半し、相互の支配権を認めあう した じ ちゅうぶん 下地中分の取決めをおこなったりする こともあった。 10 15 思 解決済み 回答数: 1
日本史 高校生 8ヶ月前 こちらは山川の教科書の記述ですが、最初の一文についての質問です。全ての武士が開発領主の系譜を引いていたのですか?他のページに中、下級貴族からの武士もいるみたいなことが書いてありました。しかし、そういう武士もきっと館があったと思うので、特にルーツのことはそんなに考えなくても大... 続きを読む かいはつりょうしゅ この頃までの武士は開発領主の系譜を引き、先祖 武士の生活 以来の地に住み着いて、 所領を拡大してきた。 彼ら やかた は、河川の近くの微高地を選んで館をかまえ、周囲には堀・溝や (たち) ねんぐ くじ 塀をめぐらした。館の周辺部には、年貢や公事のかからない直営地の 5 を設け、下人と呼ばれる従者や所領内の農民を使って耕作させた。さ げ にん らに荒野の開発を進め、みずからは地頭など現地の管理者として、農 こくが 民から年貢を徴収して国衙や荘園領主におさめ、定められた収入とし かちょうまい て加徴米などを得ていた。 解決済み 回答数: 1